2011-03-05

プレストウィッツ一家と日米関係


プレストウィッツ一家と日米関係 (ワシントン日本商工会会報 2000年6月号)

村上博美(経済戦略研究所 研究員)


かつて、ジャパンバッシングの筆頭に挙げられ、“日米逆転”の著者でもある、経済戦略研究所のクライド・プレストウィッツ所長を知らない方は、ワシントンにはおられないでしょうが、1970年代に日本人の男の子を養子にした、同氏の一面を知る人は少ないでしょう。その知られざる一面を、同研究所研究員の村上博美さんに紹介して頂きました。



先日、旧正月のお祝いにと、プレストウィッツ家に招かれました。広い壁面には、アメフトで鍛えた学生時代の勇姿や、新聞の一面を飾った商務省時代のエネルギッシュな記事、時の人、共和党元大統領候補ジョン・マッケイン氏と並んで撮ったものなど数多くの写真が所狭しと並んでいました。その中でも一際目を引いたのが、大きく引き伸ばした中国系アメリカ人の夫人と3人の子供たちと一緒の微笑ましい家族写真でした。

ここで、彼の日本との関わりを見ると、1965年1月、若きプレストウィッツ氏は、妻と生後3ヶ月の娘を連れ、横浜港につく客船President Wilson号から初めて日本を目にします。当時、ハワイの大学院からあまり人気のない日本へ留学したのは、奨学金の条件がアジアの言語を勉強することだったことと、修士号を修了するのに必要だったためでした。初め中国語を勉強しようかと迷った氏に日本語を勧めたのは、エンジニアだった義父だったそうです。彼曰く、「中国はモノを作らないが、日本はモノを作る。」と。周囲の人々の心配をよそに、ご当人たちは、未知の国に対する好奇心と冒険心でいっぱいだった。とは言うものの、その当時の日本のイメージは、新鮮,エキゾチック、そしてもの珍しさ。氏は、「裕福でなかったとはいえ、アメリカでは車も持ってたし、家にもお風呂はあった。」入居した目黒のアパートは、6畳と3畳に台所、トイレ、風呂なし、暖房は石油ストーブのみ、その上お湯はでない。そんな家でも日本人からは羨ましがられた。アパートでの初めての夜、はだか電球の下で、長女を湯浴みさせるため、お湯を沸かすのにてんてこ舞いしたことを懐かしく思い出す。石油ストーブのセールスマンがちょくちょくストーブの具合を見に来てくれたのは、自分たち家族が一番のお得意さんだったからと勝手に解釈している。はじめての銭湯ではちょっぴり戸惑った。女の人が男湯の脱衣所で、衣服を片づけたりタオルを渡したりしていたからだ。

1976年、11年ぶりに再度日本の地を踏んだ氏は、今度は外資系ヘッドハンティング会社の副社長として日本の市場に飛び込みます。当時、有能な日本人役員を確保するのが難しかった外資系会社は、なんとかしてくれと氏に泣きつきました。日本の会社の数倍の給料を払うことで、やっと見つけた日本人部長の初出社の当日、朝11時になっても姿を見せない。心配になって電話したところ、「やっぱり外資へは行けない。家族や親族が大反対するんだ。」その時ほど、日本の社会的な壁の大きさを感じたことはない。今では、東大卒業生が先を争って外資系企業に就職するという話を聞くと、時代は変わったと感慨も深い。「あの頃の日本は、今とは全然違う。」外資系の会社に働こうという希有な日本人役員は皆無だった。なんとか探してくれと頼まれたが、「仮に見つかったとしても、雇わない方がいいよ。なぜかというと、そういう日本人は狂人しかいないから。」と言ったものだ。おかげで、氏自身が人工腎臓を作る会社の日本支社役員を兼務することになった。ラッキーだったのは、人工透析の新しい技術が本国で開発され、日本のライバルに大きく水をあけることができたこと。その技術を日本の市場に提供するために、厚生省との折衝や医療機器流通業者との対応にあけくれ、日本のビジネスが如何に動くかを肌で経験することができた。一度目の滞在と違ったのは、「お客さん扱い」されなかったことと、府中の西洋式の家に住んだことかな、とは本人の弁。

日本にはよき思いでもたくさんあるが、複雑な思いも多々あると言う。日米通商摩擦がピークを迎えたレーガン政権時代、商務長官特別補佐官に任命され、再び日米関係に携わることになった。日本の新聞からは、ことあるごとに目の敵にされ、中傷めいた記事も多く書かれた。1980年代初め、ブッシュ副大統領と共に羽田に降り立ったプレストウィッツ氏は、名前を呼ばれて振り返った途端、フラッシュが光った。翌日の某経済新聞の一面の写真は、ブッシュ副大統領ではなく後ろのスタッフ用タラップから降りるプレストウィッツ氏だった。そして通商交渉の内容と共に「戦後日本にとって一番の悪者」と名指しされた彼の記事が紙面の大半を占めていた。「あの時は、本当に辛かった。日米双方にプラスになる道を模索していただけなのに…。よき思い出、よき友人がいっぱいいる日本をどうして陥れようとするだろうか。」その記事のでた翌日、その某経済新聞社に知人の恭子さんが憤慨して手紙を書き送った。「記事は間違いが多すぎる。本当のプレストウィッツさんは私たちのよき友人です。」と。その手紙は今でも大事にとってある彼の宝物だ。未だに「日本」には、いろんな意味で、特別な思いを持っていると言う彼は、毎日、日本の新聞雑誌類には必ず目を通す。彼にとっては日米関係は今も重要さを失っていない。

そんなプレストウィッツ氏も彼を支え続けた夫人には頭があがらないという。気さくで話し上手な夫人は、場を和ませる天才だ。日本にいた1965年頃の話だが、夫人が「お寿司っておいしいわねぇ。これアメリカに持っていったら流行るんじゃないかしら?」と言ったところ、「冗談じゃないよ。アメリカ人が生の魚なんて食べないよ。私たちはアメリカ人の中でも変人だからね。」と一笑に付した。それが今はどうだろう。寿司レストランが多いことに驚く。海外経験は、実は多い。日本へ行く前に外交官試験に受かっていて、日本で過ごした直後、オランダのロッテルダム勤務になる。その後アメリカへ帰りSCOTT社に転職し、4年のブリュッセル勤務となった。ブリュッセル勤務の後、再度日本勤務になった時も、妻の「このカップラーメンていうの、便利ねぇ。アメリカ人に向いてるわよ。」という夫人の言葉を聞き流していたら、今ではどのスーパーマーケットでも見られる商品になってしまった。今でこそ「妻の言うことは、すべて聞きます」というプレストウィッツ氏だが、カップラーメン輸入で億万長者になるより、日米関係で名を馳せた方が本人の意とするところであったのではないかと、あまり悔しそうでもない顔を見て思うのです。

プレストウィッツ氏が脚光を浴びた1980年代は、いろんな意味で日米関係のうねりがあった時代でした。ダイナミズムがあったと同時に、お互いに成長した貴重な時代だったのではないでしょうか。私も1981年から2年間アメリカで過ごしました。当時通っていた中学校の社会科の先生に、「日本には今でもサムライがいるのか。」と聞かれ、非常に驚いたことを覚えています。アメリカの南部の田舎ではその程度の認識だったのでしょう。それから見ると、その後の20年間、日本への理解度や関心度の進展には、目を見張るものがありました。1960年代の日本を知っていて、且つ日米関係に関わっている人たちが段々少なくなっていきます。プレストウィッツ氏の言う、日本の輸入障壁を取り除き、貿易によって安いものをどしどし輸入し、不必要な談合や非効率な流通機構に変化を促してくことは、日本の消費者のため、そして消費がGDPの6割を占める日本経済にとっても、プラスではないでしょうか。最近日本への関心がとみに減っているワシントンで、日本に情熱をかけている数少ないアメリカ人の一人である彼は貴重な存在です。エド・リンカン氏しかり、プレストウィッツ氏しかり。何も日本が憎くて苦言を呈しているわけではないことは、少しお分かりいただけかと思います。



プレストウィッツ一家と日米関係