2012-07-20

合意のねつ造 世論を欺く世論調査

 ことある毎に行われている世論調査は、古くからのマスメディアの手法である「合意のねつ造」のための典型的な、古くて効果の高いメソッドだ。
 世論調査の個々の問いが誘導的であることに、大半の人が気づき始めた。しかしテーマの設定自体が、合意のねつ造の根本であることを指摘する声は出にくい。世論調査結果を批判するにしても、ついつい、中身の吟味と具体的な事柄の批判に終始してしまう。世論調査もその一つであるアジェンダセッティングの枠組みの中で、批判者も自らの意図に反して、補完的な役割を担わされることが多い。

 マスメディアは主体的に、アジェンダセッティング(≒テーマ設定)を行い、政治状況を考えるための文脈や土台を提示することで、人々の思考をアジェンダに沿った枠組みの中に閉じこめることが出来る。メディアの受信者は、受け手であること以上に受動的思考を強いられている。また、それに気づくことがほとんどないという利点がある。
 自分の意見だと思っているものが、被操作的なものであることも大いにあり得るのだ。

 世論調査によってマスメディアは、事実のないところに事実のようなもの=民意らしきものを作り上げ、それをテーマに、有り体に言えばマッチポンプ的政治言論状況を作り出すことが出来る。

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以下は「週刊ポスト2012年8月3日号」からの引用
http://www.news-postseven.com/archives/20120720_130805.html

若者ら除外する世論調査結果の信憑性に疑問 2012.07.20
「小沢新党、期待せず79%」「消費増税法案可決を評価する45%」…と大々的に報じられる世論調査の結果に違和感を覚える人が多い。周りの人々と話しても、とてもそんな結果になるとは思えない。世論調査の数字は、本当に“民意”といえるのだろうか。

ともにメディアに籍を置き、表も裏も知り尽くすジャーナリストの鳥越俊太郎氏と長谷川幸洋氏は「世論調査ジャーナリズム」に正面から疑義を呈した。

鳥越:昔、世論調査は選挙の時ぐらいしかやらなかった。でも今は政局が動くたびにやっていて、明らかに過剰な数です。今回、『週刊ポスト』が調べたところ、この半年間で読売が12回、次いで朝日が11回。

これに産経、毎日、日経も7回程度やっていて、大手紙だけに限っても実に4日に1度、どこかが調査を行なっている計算になる。しかも、新聞の一面トップを飾ることが多くなった。

長谷川:世論調査が増えたという印象は私も同じです。10年以上前は調査員が戸別訪問して行なう「面接調査」が中心でした。今はコンピュータがランダムに選んだ電話番号をもとにオペレーターが電話をかけて調査する「RDD」(Random Digit Dialing)という方式が主流です。この方式だと、調査が簡単に素早くできるようになった反面、調査結果が歪んでしまう可能性があるんです。

鳥越:固定電話の番号だから、あまり家にいないサラリーマンや若年層は有効回答から除外されやすいよね。

長谷川:そもそも、ひとり暮らしの若年層は固定電話自体を持っていませんよ。他にも様々な問題がある。電話口で読み上げるので回答の選択肢の前の方にあるものが選ばれやすい、態度がはっきりしない回答者に「あえていえば」などと重ね聞きするかしないかで結果の数字が大きく変わってくる、といったことです。

鳥越:毎日新聞の記者時代の経験ですが、例えば、選挙に関する世論調査の結果を発表する前に選挙の担当者が数字を“調整”するのをしばしば見てきた。担当者が取材で掴んだ選挙区情勢と違うという理由です。

そういった裏事情を知っているので、私自身は世論調査の数字を疑っています。

ーーーーーーーーーー  以上引用終わり

□アジェンダセッティングとあじさい革命
 リテラシーによって、マスメディア的思考の枠組みの外へ出て、きちんと批判する道もある。しかしこの枠組みを時にはひっくり返すことが必要だ。
 この強力なアジェンダセッティングという武器を市民の側に取り戻す手段がある。《SNS+リアルデモ》によって市民の側に、政治状況のアジェンダセッティングの主体=主権を取り戻す契機とすることが出来る。
 官邸前デモに心を寄せる多くの人も、投票によってしか政治が変わらないといまだ信じ、次の投票行動の選定条件を考え投票し/落選させようと訴える。
 議員代理制=間接民主主義の下で、投票から投票までの間、つまり投票日という一瞬をのぞくほぼすべての期間、国民はずっと主権を議員に委ねていなければならないのだろうか。

 違う。
 そうじゃなくて、マスコミに代わって市民がアジェンダの設定の主体になることで、市民は政治言論を動かし、議員を動かすことが出来る。それが不断の運動による民主主義の形だ。だから直接民主主義抜きの間接民主主義など無いと云うべきなのだ。
 日本の”democracy0.2” を ”democracy1.0” に引き上げるチャンスが目の前に顕れ通り過ぎようとしている。
 多くの人々が自覚的には未だ気づいていない、《あじさい革命》の本質だと思っている。

メモ 12-7-12 ドゥルーズ


千のプラトー プラトー:高原

脱中心的 多重的
脱原発 脱中心 原発は中心的、中枢的、中央権力的、コアと周辺という構造 近代的 集中型
脱原発運動は、脱中枢的に個々人に任された運動体 同時多発的

RT @TakagiJinza_bot: 私は単純に原発の問題から反原発論へということを言うつもりはない。原発というのはアクティビズムの極致の技術、巨大かつ能動的な装置を持ち込み制御しているが、そのような制御の仕方、システムのあり方に依らない文化を考えることが、本当の安全文化を考えることであると思う。

分裂病 スキゾフレニー
マシニーク マシニスム 機械状 欲望機械 無意識とは機械である
発明した道具、機械にまとわりついているもの

「差異と反復」「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」
《器官なき身体》
「資本主義と分裂症」
衝動や欲望が内側に向かって押し潰される 資本主義社会と分裂病の蔓延
資本主義は欲望を内部に溜めてしまう欲望機械 自分の欲望に走ろうとすると分裂病になる。

フロイト精神分析が仮定した「健全な主体性」が、欲望を歪めて取り出したのではないか・
「健全な主体性」が仮定されるとそこからはみ出したものが、病的とされる。

2012-07-16

アイドルグループの卒業と「ギンガムチェック」


未成熟の延命     「ギンガムチェック」   AKB48新曲

卒業を宣言した前田敦子は選抜総選挙を欠席したのだから、このAKBの新曲にはもちろんでていない。前田敦子の存在感が、非在であることで、浮き立った。メンバーの中でそれほど飛び抜けた存在とも思っていなかったのだけれど、前田敦子がこれまでずっとセンターを張っていたのにはちゃんとした理由があったのだ。
AKBファンの男どもは、(AKBフリークでないと意味は分からないだろうが)この新曲を乃木坂曲だと云っている。ある意味正しい。この曲の衣装であるギンガムチェックの少し長めのスカート丈は、彼女たちが短いスカートだけが似合う「少女アイドル」ではなくなっていることを表している。メロディーラインも曲想も、ボクちゃんたちにとってはちょっと大人メ、上メなお姉さま視線が感じられる。
前田敦子が卒業すると云うことと、選抜一位に返り咲いた大島優子センターの曲がギンガムチェックであることは密接に結びついている。女子が男子より早く成熟することが世の常であるように、 AKBのメンバーはより早く成熟し、ファンの男のこたちはAKBに成熟度において取り残された。彼らおとこのこは本当はAKBを卒業していくべきなのに、卒業できずにいる。彼らは熟そうとしない未成熟な雄花たちだ。

脱皮を繰り返すことによって成熟するのではなく、成熟を外へ排出し、若さを保つ魔法、それがハロプロが開発した「卒業」という儀式だった。中学生が卒業を通過して高校生になるように、個人を主人公にすれば「卒業」は脱皮と成熟を意味するのに、学校を式をする主体に転倒させることによって、「卒業」を成熟を排除する場に意味転換=換骨奪胎し、未成熟の価値に目を向けさせ、グループの未成熟の延命に成功した。アイドルビジネスにとっては画期的かもしれない。文化的背景が違う個人主体の米国では、人を入れ替えることでグループを延命させるこの手口がすんなりとは受け入れられないだろうが、でも装いをかえてこれをまねようとする者が出てくるかもしれない。

大島優子が卒業意向をうっかり口にしたように、20歳を超えた者たちをAKBにとどめておくのは難しいだろう。