2012-03-23

Twitterについて ”コメントコンテンツ“

SNSの中でもTwitterは、mixiやfacebookのような人と人を結びつけるソーシャルネットワーキング機能に加えてコメントコンテンツを流通させるという機能を得意としている。

何も分からずにTwitterに初めてログインしたとき、画面に現れたのは「今なにをしているを呟きましょう」というフレーズだった。それはリアルな社会生活での「おはよう」で始まる日常の世界をネットで実現しようとしていると思えた。mixiの書き込みはリアルタイムではないので「おはよう」「いい天気だね」は成り立たない。この直接的な意味がほとんどない言葉による会話で、人と人の日常生活の関係性が具体的に動いていく。しかし、この写しとしてTwitterが使われたかというと、そうでもなく、そのような呟きのやりとりが副次的にしか使われない場が広く活発に形成された。

そこではTwitterはネット上の人付き合いの道具から離れて、コメントコンテンツのリアルタイムの流通という機能を主に担うようになっていった。

Twitterは情報の共有ツールとしても優れていた。一次情報の主なものはマスメディアで収集される情報だ。次にマスメディア以外のネットにある情報。それらをベースにしてその情報に対峙した個々人の思いがTwitterの呟き=コメントとして表出される。コメントに接して想起された思いが、さらに新しいコメントコンテンツとして生み出され、神経回路で起こっているようにソーシャルネットワークの世界でスパークし響きあい、消長する。
Twitterの主役は、茂木健一郎が言うように“文化的遺伝子=ミーム”なのだ。
コメントコンテンツとして主に現れるのは、新聞でとり扱われる分野に重なり、その量の多寡や軽重も相似していると思える。

Twitterではしばしば論争めいたものがあちこちで小爆発を起こす。この宇宙では論争は噛み合わず生産的な過程を伴ってアウフヘーベン(止揚)された試しはない。Twitterが論争に向いていないと、誰もが気付いている。140字の“コメントコンテンツ”が持っている容量と質の限界なのだ。

世間では嫌悪感や不満、ヘイトスピーチを生み出す感情が渦巻いている。かつてはその感情を表出するには面と向かって実名でなされるしかなかった。当然抑制がかかっていて、また閉鎖的だった。ネットはこれらの感情を社会へ表出する回路を開け、その上匿名性の仮面を被ることによってリミッター装置を解除し感情が生のまま露出されることになった。この呪いの言葉は感情的、否定的、断定的で貧相な言葉使いで構成されている。
それを反映してTwitterにも呪いの言葉は繁茂している。静かに放置するのが鎮める一番の方法だと思うが、参照しコメントをつけることがTwitterの本態的な機能なので呪いに加勢し火に油を注いでいる。批判しようとして蛸壷から抜けられずTwitterの性質に自分が踊らされていることに無自覚なことが多い。

このようなネガティブな面を持っていても、限定的とはいえ“コメントコンテンツ”に込められた思念=意見を、それまでは不可能だったパブリックに表出する事ができるツールであり、Twitterの場は思念が響きあう一つの宇宙なのだ。

《『東浩紀 一般意志2.0』
ツイッター …それはかつて想像の共同体の要としての国民国家の統合に大きな役割を果たした新聞やラジオやテレビのような二十世紀型のマスコミとは対極にあるメディア体験である。新聞やテレビでニュースが強制的に視聴者の生活に入り込んでくる。ネットにはそれがない。けれどもツイッターは他方でそのような島宇宙を横断しユーザーをそれぞれの小さなコミュニケーションの外部に半ば強引に連れ出す機能もまた備えている。 親密なコミュニケーション空間の間を、時折爆発的に拡散するリツイートの群がランダムかつ暴力的につないでいるような二層構造で維持されているのである。》

《内田樹  ブログ:ネットに繁殖している言葉の多くは匿名であり、情報源を明らかにしないまま、断定的な口調を採用している。ネットは実に多くの利便性をもたらしたが、それは「匿名で個人を攻撃をするチャ ンス」を解除した。今ネット上に氾濫している言葉のマジョリティは見知らぬ他人の心身の耗弱をめざすために発信される「呪い」の言葉である。》

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