2014-03-07

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』第四章インチキとごまかしの産物−人権

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』  2001年文春文庫

第一章 「いかがわしい言葉」 デモクラシー
要約へのリンク http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

第二章 「われとわれとが戦う」病い 第三章 抑制なき力の原理 「国民主権」
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第四章 インチキとごまかしの産物 人権  要約

 仏教に「悉有仏性」(しつうぶっしょう)すべてのものにはことごとく仏性がそなわっているという教えがある。すべての人間のみならず万物が平等であるという思想なのである。
 悟りをひらくことの第一歩は、何かを「権利」として要求するようなさもしい根性を洗い流すことにあるのであり、「自由」とはまさにそのような執着から自己の心身を解き放つことにある。
 …そうした立場から見れば、次の「独立宣言」の一節は、ただ嗤うべき矮小さ、そのものでしかない。
 「われわれは、次の真理を自明のものと信じる。すなわち、すべての人間は平等につくられている。すべて人間は創造主によって、誰にも譲ることのできない一定の権利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、及び幸福の追求が含まれる」 
 宗教といえばキリスト教しか知らない、当時のアメリカ植民地人にとっては、これは十分に「自明の真理」であったに違いない。
 ところで、「独立宣言」を手本として作られた「人権宣言」においても、「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」という権利には、それに見合った「神聖な義務」については完全な沈黙がある。これは一方的な義務なき権利なのである。
 一口に言って「人権」の概念は、こっそり裏側では神に頼り、神のご威光によって正当化しておきながら、それと一対となるべき「神への義務」に頬かむりを決め込んでいる、そういう代物なのである。

 人民が結束して政府を作るのは、「人権」の確保のためであり、「国民主権」のもとで人民が同意を与えたとき、はじめて正当な政府として認められる、という筋書きがある。政府がその大目的に肯かなくなったとき、人民はその政府を改廃する権利を持つという筋書きである。国家の指導者を悪玉扱いして引きずり落とそうとする性癖がギリシャの時代からあった。デモクラシーとはその性癖をイデオロギーとして掲げる運動なのだ。人権はこの運動の原動力として使われている。

 わたしたちには権利があるという発想は、本来は知恵を出し合って解決してゆかなければならない問題を、権利を主張しあうことでいたるところで単なる闘争に変えている。権利の概念が人々の思考停止を招いているのである。
 そして様々な権利の合唱の果てに、「絶対的恣意的権力」の幻だけが残って、結局は国家や大企業が悪者である、という気分のみが漂うことになる。
 「人権」の呪縛を断ち切ったとき、はじめて我々は本当の「国民のための政治」を考える出発点に立つことが可能なのである。


----以上、民主主義擁護の立場からではなく、著者の言わんとしたことにできるだけ忠実に要約したつもりである。言葉遣い・引用は原文そのままではない。孫引きには適しません。

第一章 「いかがわしい言葉」デモクラシー
第二章 「われとわれとが戦う」病い
第三章 抑制なき力の原理 国民主権
   国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
   惨劇を生み出す原理--国民主権
第四章 インチキとごまかしの産物 人権
   義務なき権利
   独立宣言のインチキ
   革命のプロパガンダとしての人権
   人権 この悪しき原理
   とどまるところを知らない「人権」の頽廃
結語  理性の復権

ー 完 ー

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