2014-03-04

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』第三章抑制なき力の原理「国民主権」

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』  2001年文春文庫

第一章 「いかがわしい言葉」 デモクラシー
要約へのリンク http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

第二章 「われとわれとが戦う」病い
 ギリシャにおける政治の変遷
 民主制・僭主政
 本物の僭主、狼と化した指導者は、近代デモクラシーにおいて、あるいはロベスピエールとして、あるいはヒトラーとして出現したのではなかったか?これらの怪物がどこから生まれてきたのかを見ようとせずに、ただ「恐怖政治」「ナチズム」「ファシズム」と読んで、それと敵対するのみなのである。

第三章 抑制なき力の原理 「国民主権」

主権とはなにか
 「主権とは国家の絶対的で永続的な権力である」とジャン・ボダンは定義する。つまり、国家は自らの法を定め、国政を行うにあたって、他からの権力に従うことなく、独立してそれを行いうる、ということである。主権概念の定義付けの出発点において、対外的な主権と国内的な主権とが、同じ一つの概念として、表裏一体にして定義づけられていることを忘れてはならない。国家主権を忘れて国民主権にかまけるということは、本来通用しないのである。
 絶対王政において専制君主に属する国家権力・政治権力は「正しさへの義務」と王権神授説的な根拠付けが一対となって結びついていた。君主主権そのものが専制君主の圧政を許すものではなく、フランス革命をそれへの反抗として当然のように起こったと見るのは単純に過ぎる。

英国の政治体制 立憲君主制
 英国では、その成り立ちから征服王と土着の国民との間に分裂と対立をはらんではいるが、王権と慣習法との均衡と調和の政治が行われていた。
 慣習法とは、歴史的に形成された過去の無数の人々の叡智と体験の結晶であり、また起源を知ることができない。

 英国の国政は、ボダン流の主権論が入り込むことによって、本来の形から大きく逸らされてしまったのであるが、そこから再び「古来の憲法」を見出すというかたちで、むしろそれまで以上に明確な自己自身を回復した。 英国の革命は、レヴォリューション=転がって再びあるものへと立ち返ること、「回帰としての革命」であった。分裂と対立の病を克服して自己自身を回復したところにその核心がある。
 英国人たちには、先人の知恵を尊び、現代の人間たちの傲慢を抑えるという伝統が出来上がっていた。

 フランス的な「国民主権」の概念は、英国の国政が例外的にコントロールを失い、国王対国民の対立がむき出しの「闘争」となったことに刺激され、君主主権を逆転して、国民の力を国政の支配者に立てる、という形で出来上がったのである。これは、大陸の主権論と英国の憲法とが、最も不運な結びつきをしたところに出現した。
 一口に言えば「国民主権」の概念は「抑制装置を取り外した力の概念」である。この概念は国の内側に対しても外側に対しても、歯止めのない暴力性・闘争性を発揮した。
 多くの人々は近代戦争が陰惨で激越なさまを眺めて、「ナショナリズム」の引き起こしたものであると考える。しかしそれは国家主権と表裏一体の国民主権の概念が、外側に対して発揮したものなのだ。

 国民主権の歴史的性格は、今もなお、民主主義の中心的理念の一つとして、その毒を発し続けている。

----以上、民主主義擁護の立場からではなく、著者の言わんとしたことにできるだけ忠実に要約したつもりである。言葉遣い・引用は原文そのままではない。孫引きには適しません。

第一章 「いかがわしい言葉」デモクラシー
第二章 「われとわれとが戦う」病い
第三章 抑制なき力の原理 国民主権
   国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
   惨劇を生み出す原理--国民主権
第四章 インチキとごまかしの産物 人権
   義務なき権利
   独立宣言のインチキ
   革命のプロパガンダとしての人権
   人権 この悪しき原理
   とどまるところを知らない「人権」の頽廃
結語  理性の復権

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