2012-11-06

iPad mini 素人な個人的感想


2012.11.5

⒈iPad miniは軽い
・重さが半分以下のiPhone4sよりひょっとして軽いのかと思わせられる。小さなiPhoneには、重量密度が高く、iPad miniに比較すると機能と部品がギュッと詰まっていることを実感させる(いい意味で)ずっしり感じがある。iPad miniは薄さと重量密度の低さ及び実重量の軽さが相まって、とにかく重さを感じさせない。携帯性の良さが際立つ。
・もし私がWi-Fi環境にないところにちょくちょくいるなら、ひょっとして3G/LTEが必要かもしれない。しかし、電車の中ではRetinaのiPhoneで十分だし、それ以上のことを求めるのは、生活様式の限度を超えている。してはいけない行動だ。

⒉動作がスムース
・iPad専用のアプリが痒い所に手が届く様に作られている。
・SafariでWebブラウジングする時、Androidのように全部開き切らなくても、スクロールがスムースに行える。3カラムに分割されていて中央に本文があるサイトがよくあるが、本文を読むのにクリックで大きさを調整できる機能はAndroidも同じように持ってはいるが、文字拡大の調整がスムースで適切なのは断然iPadだ。
・Web上の記事でも、スペック数字では優れているNexusが、スコアがほぼ同じで体感的にも差が無いとの記載がある。実際に使って見ての感覚と同じだ。
『iOS機器とAndroid端末の性能比較できるベンチマークアプリ「PerformanceTest Mobile」を使用して比較したトータルスコアは「iPad mini」が2049で「Nexus 7」が2082。CPUのコア数や搭載メモリで勝る「Nexus 7」と「iPad mini」がほぼ同じスコアになっているのは少し意外ですが、実際に操作してみた際の体感速度でも大きな差を感じることはありませんでした』

⒊十分なスペース=大きさを持っている
・いま、TextForceで入力しているが、テキスト入力画面としてはAndroidの10”タブレットと同じくらいのスペースが確保されていて、読みやすく、入力しやすい。(Webブラウザーでも同じようなことが言えるが)テキスト入力画面として横幅が大き過ぎては、一覧性に欠けたり、目(視点)の移動距離がほんの少し長くなっただけで辛かったりする。スペースが十分でない時のデメリットは書かなくても分かる。
・このディスプレイの大きさの適切さは、不思議なことに、縦使いでも横使いでも同じように使いやすいのだ。
・Webブラウジングでも、これ以上の大きなスペースは要らない。必要十分な大きさだ。

⒋外付けキーボードとの相性
・AppleのWiFiキーボードとの相性が良い。AndroidではUS配列になったり、動かないキーがあったり、入力にストレスを感じた。
・これだけスムースに入力できると正直、NotePCは要らないだろう。

⒌ディスプレイにわずかに不満
・思っていた程度の悪さでしかないが、ディスプレイがRetinaでないことは残念だ。これでもしRetinaディスプレイだったら、言うことはない。
・Webブラウジング時に文字を読むのにはそれほど不満は感じないのだが、さすがにビューンを読むのは辛い。これはRetinaでないと無理かも。
・Kindleのbookを読むのは全く問題ない。
・価格・重量・厚み・必要CPUの組み合わせを考えると、今のiPad miniはベストミックスなのだろう。

・充電に時間がかかり過ぎる。iPhoneと同じ5wの充電器では不十分で、12wの物を標準パックにすべきだ。

⒍AssistiveTouchに驚いた
・iOS⒌から導入されたAssistiveTouchだが、iPhone4sで使用してみた時は、全く使いようがないものだと感じていた。ところがiPad miniではむちゃくちゃ便利なのだ。iPad miniをスタンドに立てかけて使うからだ。その状態ではホームボタンを押しにくい。 ところがAssistiveTouchを使うとホームボタンもディスプレイの回転ボタンも、そして音量ボタンも物理ボタンを二つ押して使うスクリーンショットまで、つまり物理ボタンが全てこのソフトボタンで代替できるのだ。
・4本指で使うマルチタスクも使える。アプリ切り替え、マルチタスクバー、ホームボタンもこのマルチタスクジェスチャーでこなせる。

⒎ノングレアのフィルム 
・写り込みが無くなって、目に優しく見やすくなった。これは僅かな投資でディスプレイの価値を高めると言えるほど、かなりな効果があった。

2012-09-30

奢りと蔑視

村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」

 作家の村上春樹さん(63)が、東アジアの領土をめぐる問題について、文化交流に影響を及ぼすことを憂慮するエッセーを朝日新聞に寄せた。村上さんは「国境を越えて魂が行き来する道筋」を塞いではならないと書いている。

 日本政府の尖閣諸島国有化で日中の対立が深刻化する中、北京市出版当局は今月17日、日本人作家の作品など日本関係書籍の出版について口頭で規制を指示。北京市内の大手書店で、日本関係書籍が売り場から姿を消す事態になっていた。

 エッセーはまず、この報道に触れ、ショックを感じていると明かす。この20年ほどで、東アジアの文化交流は豊かになっている。そうした文化圏の成熟が、尖閣や竹島をめぐる日中韓のあつれきで破壊されてしまうことを恐れている。

 村上作品の人気は中国、韓国、台湾でも高く、東アジア文化圏の地道な交流を担ってきた当事者の一人。中国と台湾で作品はほぼ全てが訳されており、簡体字と繁体字、両方の版が出ている。特に「ノルウェイの森」の人気が高く、中国では「絶対村上(ばっちりムラカミ)」、台湾では「非常村上(すっごくムラカミ)」という流行語が生まれたほどだ。韓国でもほぼ全作品が翻訳され、大学生を中心に人気が高い。東アジア圏内の若手作家に、広く影響を与えている。(村上さんの寄稿エッセー全文は以下)

     ◇

 尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。

 この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。

 僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。

 たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。

 このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。

 今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。

 国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。

 そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。

 僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。

 最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。

 安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。

     ◇

 むらかみ・はるき 1949年生まれ。早稲田大卒。著書に「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ノルウェイの森」「アンダーグラウンド」「1Q84」など。レイモンド・チャンドラー「リトル・シスター」など翻訳書も多数。読売文学賞、フランツ・カフカ賞、朝日賞、エルサレム賞など国内外の賞を受賞。

2012-07-20

合意のねつ造 世論を欺く世論調査

 ことある毎に行われている世論調査は、古くからのマスメディアの手法である「合意のねつ造」のための典型的な、古くて効果の高いメソッドだ。
 世論調査の個々の問いが誘導的であることに、大半の人が気づき始めた。しかしテーマの設定自体が、合意のねつ造の根本であることを指摘する声は出にくい。世論調査結果を批判するにしても、ついつい、中身の吟味と具体的な事柄の批判に終始してしまう。世論調査もその一つであるアジェンダセッティングの枠組みの中で、批判者も自らの意図に反して、補完的な役割を担わされることが多い。

 マスメディアは主体的に、アジェンダセッティング(≒テーマ設定)を行い、政治状況を考えるための文脈や土台を提示することで、人々の思考をアジェンダに沿った枠組みの中に閉じこめることが出来る。メディアの受信者は、受け手であること以上に受動的思考を強いられている。また、それに気づくことがほとんどないという利点がある。
 自分の意見だと思っているものが、被操作的なものであることも大いにあり得るのだ。

 世論調査によってマスメディアは、事実のないところに事実のようなもの=民意らしきものを作り上げ、それをテーマに、有り体に言えばマッチポンプ的政治言論状況を作り出すことが出来る。

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以下は「週刊ポスト2012年8月3日号」からの引用
http://www.news-postseven.com/archives/20120720_130805.html

若者ら除外する世論調査結果の信憑性に疑問 2012.07.20
「小沢新党、期待せず79%」「消費増税法案可決を評価する45%」…と大々的に報じられる世論調査の結果に違和感を覚える人が多い。周りの人々と話しても、とてもそんな結果になるとは思えない。世論調査の数字は、本当に“民意”といえるのだろうか。

ともにメディアに籍を置き、表も裏も知り尽くすジャーナリストの鳥越俊太郎氏と長谷川幸洋氏は「世論調査ジャーナリズム」に正面から疑義を呈した。

鳥越:昔、世論調査は選挙の時ぐらいしかやらなかった。でも今は政局が動くたびにやっていて、明らかに過剰な数です。今回、『週刊ポスト』が調べたところ、この半年間で読売が12回、次いで朝日が11回。

これに産経、毎日、日経も7回程度やっていて、大手紙だけに限っても実に4日に1度、どこかが調査を行なっている計算になる。しかも、新聞の一面トップを飾ることが多くなった。

長谷川:世論調査が増えたという印象は私も同じです。10年以上前は調査員が戸別訪問して行なう「面接調査」が中心でした。今はコンピュータがランダムに選んだ電話番号をもとにオペレーターが電話をかけて調査する「RDD」(Random Digit Dialing)という方式が主流です。この方式だと、調査が簡単に素早くできるようになった反面、調査結果が歪んでしまう可能性があるんです。

鳥越:固定電話の番号だから、あまり家にいないサラリーマンや若年層は有効回答から除外されやすいよね。

長谷川:そもそも、ひとり暮らしの若年層は固定電話自体を持っていませんよ。他にも様々な問題がある。電話口で読み上げるので回答の選択肢の前の方にあるものが選ばれやすい、態度がはっきりしない回答者に「あえていえば」などと重ね聞きするかしないかで結果の数字が大きく変わってくる、といったことです。

鳥越:毎日新聞の記者時代の経験ですが、例えば、選挙に関する世論調査の結果を発表する前に選挙の担当者が数字を“調整”するのをしばしば見てきた。担当者が取材で掴んだ選挙区情勢と違うという理由です。

そういった裏事情を知っているので、私自身は世論調査の数字を疑っています。

ーーーーーーーーーー  以上引用終わり

□アジェンダセッティングとあじさい革命
 リテラシーによって、マスメディア的思考の枠組みの外へ出て、きちんと批判する道もある。しかしこの枠組みを時にはひっくり返すことが必要だ。
 この強力なアジェンダセッティングという武器を市民の側に取り戻す手段がある。《SNS+リアルデモ》によって市民の側に、政治状況のアジェンダセッティングの主体=主権を取り戻す契機とすることが出来る。
 官邸前デモに心を寄せる多くの人も、投票によってしか政治が変わらないといまだ信じ、次の投票行動の選定条件を考え投票し/落選させようと訴える。
 議員代理制=間接民主主義の下で、投票から投票までの間、つまり投票日という一瞬をのぞくほぼすべての期間、国民はずっと主権を議員に委ねていなければならないのだろうか。

 違う。
 そうじゃなくて、マスコミに代わって市民がアジェンダの設定の主体になることで、市民は政治言論を動かし、議員を動かすことが出来る。それが不断の運動による民主主義の形だ。だから直接民主主義抜きの間接民主主義など無いと云うべきなのだ。
 日本の”democracy0.2” を ”democracy1.0” に引き上げるチャンスが目の前に顕れ通り過ぎようとしている。
 多くの人々が自覚的には未だ気づいていない、《あじさい革命》の本質だと思っている。

メモ 12-7-12 ドゥルーズ


千のプラトー プラトー:高原

脱中心的 多重的
脱原発 脱中心 原発は中心的、中枢的、中央権力的、コアと周辺という構造 近代的 集中型
脱原発運動は、脱中枢的に個々人に任された運動体 同時多発的

RT @TakagiJinza_bot: 私は単純に原発の問題から反原発論へということを言うつもりはない。原発というのはアクティビズムの極致の技術、巨大かつ能動的な装置を持ち込み制御しているが、そのような制御の仕方、システムのあり方に依らない文化を考えることが、本当の安全文化を考えることであると思う。

分裂病 スキゾフレニー
マシニーク マシニスム 機械状 欲望機械 無意識とは機械である
発明した道具、機械にまとわりついているもの

「差異と反復」「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」
《器官なき身体》
「資本主義と分裂症」
衝動や欲望が内側に向かって押し潰される 資本主義社会と分裂病の蔓延
資本主義は欲望を内部に溜めてしまう欲望機械 自分の欲望に走ろうとすると分裂病になる。

フロイト精神分析が仮定した「健全な主体性」が、欲望を歪めて取り出したのではないか・
「健全な主体性」が仮定されるとそこからはみ出したものが、病的とされる。

2012-07-16

アイドルグループの卒業と「ギンガムチェック」


未成熟の延命     「ギンガムチェック」   AKB48新曲

卒業を宣言した前田敦子は選抜総選挙を欠席したのだから、このAKBの新曲にはもちろんでていない。前田敦子の存在感が、非在であることで、浮き立った。メンバーの中でそれほど飛び抜けた存在とも思っていなかったのだけれど、前田敦子がこれまでずっとセンターを張っていたのにはちゃんとした理由があったのだ。
AKBファンの男どもは、(AKBフリークでないと意味は分からないだろうが)この新曲を乃木坂曲だと云っている。ある意味正しい。この曲の衣装であるギンガムチェックの少し長めのスカート丈は、彼女たちが短いスカートだけが似合う「少女アイドル」ではなくなっていることを表している。メロディーラインも曲想も、ボクちゃんたちにとってはちょっと大人メ、上メなお姉さま視線が感じられる。
前田敦子が卒業すると云うことと、選抜一位に返り咲いた大島優子センターの曲がギンガムチェックであることは密接に結びついている。女子が男子より早く成熟することが世の常であるように、 AKBのメンバーはより早く成熟し、ファンの男のこたちはAKBに成熟度において取り残された。彼らおとこのこは本当はAKBを卒業していくべきなのに、卒業できずにいる。彼らは熟そうとしない未成熟な雄花たちだ。

脱皮を繰り返すことによって成熟するのではなく、成熟を外へ排出し、若さを保つ魔法、それがハロプロが開発した「卒業」という儀式だった。中学生が卒業を通過して高校生になるように、個人を主人公にすれば「卒業」は脱皮と成熟を意味するのに、学校を式をする主体に転倒させることによって、「卒業」を成熟を排除する場に意味転換=換骨奪胎し、未成熟の価値に目を向けさせ、グループの未成熟の延命に成功した。アイドルビジネスにとっては画期的かもしれない。文化的背景が違う個人主体の米国では、人を入れ替えることでグループを延命させるこの手口がすんなりとは受け入れられないだろうが、でも装いをかえてこれをまねようとする者が出てくるかもしれない。

大島優子が卒業意向をうっかり口にしたように、20歳を超えた者たちをAKBにとどめておくのは難しいだろう。