「経済学の犯罪」 −希少性の経済から過剰性の経済へ−
佐伯啓思
2012.8
読了:2012.11.19
1949年生まれ
第一章 失われた20年ー構造改革はなぜ失敗したのか
□2011年12月竹中平蔵はこういう
「自由貿易が国民全体に大きな利益をもたらすことは、アダム・スミスの「国富論」以来、世界が経験してきた共有の理解だ。日本自身はこれまで、自由貿易で最も大きな利益を得てきた国の一つと言える」これは竹中氏に限った見解ではない。いわゆるグローバリスト、市場主義者、つまりグローバル資本主義の擁護者の典型的な見方なのである。
・私にはこの短いセンテンスの中に五つの間違いがあるように思われる。
⑴アダム・スミスは決して単純に「自由貿易が国民全体の利益になる」などとは言っていない。
⑵「自由貿易が国民全体の利益になる」という命題が現代ではそのままでは成り立たない。成立するためには、一定の条件が必要であり、現代経済ではその条件は成り立っていない。
⑶自由貿易の教義は、世界共有の理解ではない。
⑷「日本が、自由貿易で最も大きな利益を得てきた」というのもそのままでは正しくない。構造改革を主張した人々は、日本経済が閉鎖的で官僚主導的で自由競争的でない、と論じてきた。自由競争をしないで日本は高度成長をしてきたことになる。自由主義経済社会であったことと、自由競争至上主義あるいは市場原理主義であることとは同じではない。
⑸「だから、TPP」という論には、飛躍があり過ぎる。TPPは自由貿易主義というよりは、ブロック経済を目指す側面が強い。また、「TPPが、国民全体の利益になる」のかどうか、さっぱり論じられていない。
・新自由主義や市場原理主義が正しい、ということを自明とする、ある種の思い込みに囚われているのではないか。色眼鏡が掛かっているのに、メガネが掛かっていることさえ、意識にのぼらせていないのではないか。
□日本の緊急問題はデフレと雇用不安。
・ある種の立場に立てば、財政問題こそが喫緊の問題だという。財政赤字を放置すれば、ギリシャ化すると声をあげる人たちだ。
・日本の赤字をファイナンスする国債は、国内で消費されており、累積財政赤字が円の価値を直接的に暴落させるわけではない。つまり為替リスクを免れている。また、国内金融機関には財政当局や日銀のグリップが効く。つまり国債価格の暴落、金利暴騰のリスクを免れている。
・デフレと雇用不安は、国内消費のスパイラル的な縮減を招くリスクが大きい。
**経済のグローバル化は、ロボットの出現より激しく、労働者賃金の下落をもたらした。24時間文句も言わずに働き続けられるロボットが職場を奪うより、後進国の低賃金労働者の方が、先進国の労働者には脅威だったのだ。
グローバル経済を導きそこから利益を享受することができる力のあるもの達が、西側経済とりわけ米国の豊かさの象徴でもあったミドルクラスを解体没落させると同時に、先進国労働者を、ロボットという機械より惨めな後進国労働者との(低賃金)競争の中に投げ込み、中間層以下の所得低下をもたらした。*
・賃金の低下と、失業の増加は、国内消費の縮減効果をもたらした。
□日本の構造改革は、長期停滞の原因だ
・ロナルド・レーガンとマーガレット・サッチャーの新自由主義的改革は一定の成果を勝ち取った。当時、両国経済ともにインフレが亢進し、生産組織が弱体化していた。また、金融部門に彼らの強みを持っていた。(ロンドン・シティー/ウォール街)日本が構造改革を行った’90年代〜’00年代の日本の経済構造とは違っていた。*いわば違った症状に、同じ処方をしたことに似ている。*
・構造改革論者は’90年代の経済停滞について、既得権益に守られた非効率的な分野が残されており、生産性が低いことが問題点だと訴えた。
**ついでに、製造業がいまだ世界的な競争力を持っていた時に、ホワイトカラーの生産性の低さと(*東側世界の解体後、日本製造業をアメリカの第一の脅威と位置付ける米国の戦略的な円高誘導の結果であるにも関わらず)労働者の高賃金を言いつのった。労働費を変動費化する為に非正規雇用を合法化して、低賃金労働者と失業者を作り出した。労働市場に自由な競争を持ち込むためである。誰のための自由な競争なのか??
・非効率な分野から資金や人材を引き上げて、経済資源の適性配分は起こったのか?答えは明白にNo!だ。資金は米国へと流され、新規参入者(学卒者・若者)を中心に人々は非正規・派遣労働者となり、低賃金にあえぎ、あるいは失業した。大企業は内部留保金の増大に見られるように富を独占した。
*
・供給力はずっと過大なままに放置された。
・生産能力があるにも関わらず、消費されないことで労働生産性の数値は低下した。供給力に見合う有効な需要がないために、消費されないのだ。
□「社会的土台」を市場原理主義が破壊する
・利潤基準/効率性基準を全ての分野に適用する。
・社会的資本 教育・医療・土地・水・地域ネットワーク・交通機関
・社会は単純均一な商品で成り立っているわけではない。
++ 宇沢弘文 『社会的共通資本』
「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。
社会的共通資本は
⑴自然環境 ⑵社会的インフラストラクチャー ⑶制度資本の三つの大きな範疇に分けて考えることができる。
大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー。そして教育、医療、司法、金融制度などの精度資本が社会的共通資本の重要な構成要素である。都市や農村も、さまざまな社会的共通資本からつくられているということもできる」
++
第二章 グローバル資本主義の危機ーリーマンショックからEU経済危機へ
□EU崩壊の危険性
・金融機関のバランスシートの悪化からも実体経済が悪化するというのはリーマンショックと同じ構造である。サブプライムローン問題からリーマンショックへは、株や土地などの資産バブルの崩壊による回収不能な不良債権が累積されることが発端であった。だが今回は、問題の発端になったのはギリシャの財政赤字=財務危機なのだ。そこで重要になったのはまたしてもヘッジファンドなのであり、金融商品=CDSである。
・経済的にはEUは、通貨統合、市場統合を含めた徹底した地域限定の経済的グローバリゼーションであった。ところが政治的には統合されていない。国家が主権を保持しているのだ。
・今日、世界100ヶ国の金融資産は200兆ドルに対しGDPの合計は約62兆ドル。実体経済に対して3倍の規模となっている。
・世界経済の安定性の鍵は、ヘッジファンドに握られているのである。
・トリレンマ 景気回復と財政均衡、金融の間には相互矛盾=トリレンマが発生している。(ソブリンリスク:政府あるいは政府金融機関に対する融資の回収不能リスク)
・*自由主義者は国家を、個人/民間経済の領域に干渉し自由を犯すものとして、また、民間/市場経済に委ねるべき経済領域を公共領域と称して政府に巣食う既得権益者に開放し保護する者として、つまり個人の自由にとって、(国家を)敵対者とみなしている。
**自由主義者は、経済領域において国家権力の介入を拒否しようとする、ある意味、アナーキスト=無政府主義者なのだ。ところが、矛盾したことにグローバルに自由主義経済を他国に浸透・展開させるためには国際的政治・軍事パワーの後押しを必要とする。リーマンショックに見られるように、国家規模での経済危機が表面化した時にはラストリゾートしての国家救済を必要とし、それを押し付けられるのは(充分に強い)国家権力なのだ。
EUソブリンリスクがギリシャからスペイン・イタリアに広がった時、EUに要求されたのはソブリンリスク回避のために取るべき財政・金融政策の迅速な政治的決定であった。
*
グローバル経済を支える存在として、佐伯氏は、民主主義体制からは遠い共産主義体制の中国の役割に言及している。
□国家と市場 国家が市場に従属する
・今日、国家は市場の外部に立っているわけではない。国家と経済が分離されているわけではない。国家は財政や為替レートを通じて市場に引きずり込まれ、市場の奴隷になりつつある。
**国家が市場に従属するという時、市場とは金融市場のことであり、国家とは国家財政=国債レーティングのことである。現代の権力の源泉の第一は、軍事力でも政治力でもなく、もちろん民主主義を支える個人の力でもなく、金融資本を握るものにある。
実体経済を振り回す力をつけるために、金融資本のシステムがあると言えるのではないか。金融資本とは、バーチャルな世界でもある。グローバル経済においても、また、国家の枠においても、債務を膨らませること、金融取引を膨らませること、信用という仮想の貨幣を膨らませることが、世界を支配するパワーとして、同時に世界の富を収奪するツールとしての金融資本の能力を高める。
*
第三章 変容する資本主義ーリスクを管理できない金融経済
□リスクと不確実性
・不確実性をある程度確率的に把握できる場合にそれをリスクと呼ぶ。確率的に把握できない事象を不確実性と呼ぶ。経済学者は、不確定性を管理するとは、まずそれをリスクに置き換え、さらにリスクを分散することだとみなす。
・CDS Credit Default Swap
・2008年 ベア・スターンズ/リーマン・ブラザーズ ゴールドマン・サックス/モルガン・スタンレー破綻寸前
□ブラック・スワン
・確率的に予想できないブラック・スワンが突然変異的に出現する。予想できないゆえに、現れた時には、管理できない破壊的な力を発揮する。
・グローバルインバランス グローバル経済における国家間の生産と消費のインバランス、換言すれば供給と需要のインバランス。米国と中国
・グローバルインバランスの進展は、グローバリゼーションと金融中心主義(*金融経済化)によってもたらされ、世界経済の不確実性・不安定性を招いている。
・この20年間のグローバリゼーション進展における勝者(=米国、中国、露、印、伯)は、国家が強力なのである。政治的指導者や支配層に集中された権力と行政力が強力なのである。
□産業型成長モデル
・工業分野や消費財分野での技術革新が生じ、それが大量生産と共に製品コストの低減をもたらす。同時に生産性の向上と共に賃金水準が上昇する。所得が増加して大量消費が可能となる。
技術革新→大量生産→所得上昇→大量生産…という循環プロセスが経済を拡張させた。
□金融経済型成長モデル
・金融工学やITによってアメリカの金融市場で高い収益期待を生み出す。それはグローバルな金融市場で圧倒的に優位に立つことを意味する。海外からの資本をアメリカの金融市場に集中し、一層の収益を生み出す。そこから発生した収益を消費に回すことによって経済を活性化する。(*収益を消費に回すというのは、トリクルダウン説だ。それは起きなかった。消費に回されたのは、海外から還流させた資金と不動産市場・金融市場において生じたバブルだ)
・経済の成熟化によって既存の産業は活力を失う。同時にグローバル経済において、低賃金の新興国に対して競争力を失う。
□金融経済とバブル
**金融経済が必然的にバブルを発生させるメカニズムを解明しなければならない*
・(その理論的背景は置いておく)とにかく金融経済化は、投資対象(土地、株式、金融商品)のインフレーション=バブル景気をもたらし、行き過ぎたところでバブルを弾けさせた。
・バブルが崩壊すると金融部門の不全症状/信用収縮を引き起こし、実体経済に打撃を与え、経済全体の悪化をもたらす。グローバル経済下においては世界同時的に危機は進行する。
・金融経済型成長モデルが破綻したからと言って、産業型成長モデルに戻れるわけでもない。先進国においては無理やり成長を追求できる時代は終わった。(*と佐伯はいう)
□新自由主義経済学あるいは「新古典派経済学」
・今日われわれは独特の経済についての思考を持っている。新自由主義的な傾向をもった市場中心の経済学がそれである。
□「市場経済の基本命題」:
「自由な競争的市場こそは効率的な資源配分を実現し、可能な限りの人々の物的幸福を増大することができる」
三つの前提
⑴人々は与えられた条件のもとでできるだけ合理的に行動する。行動に必要な情報はできるだけ合理的に利用する。
⑵経済活動の目的は人々の物的満足をできるだけ増大させることであり、この場合に、モノ・サービスの生産・交換・消費という実体経済が経済の本質である。貨幣はその補助的手段にすぎない。
⑶人々の欲望は無限であり、消費意欲は無限である。これに対して物的生産の条件となる資源は有限である。従って、経済の問題とは、希少資源をできるだけ効率的に配分するという点に求められる。
□三つの前提は、間違っている
⑴人々は常に不確定な状況の中で将来へ向けて行動している。従って、本質的な意味での合理的な行動というのは定義できない。
⑵「貨幣」は人間の経済活動の補助的な手段ではない。それは人の生活を支える独自の価値を持ったものであり、時に貨幣そのものが人の欲望を掻き立てる。
⑶人間の欲望は社会の中で他者との関係において作られる。それはあらかじめ無限なのではない。一方、今日の経済は、技術革新のおかげで巨大な生産力を持っている。もしも人間の欲望が生産力の増加に追いつかなければ、経済の問題とは、希少性の解決へ向けた問題ではなく、「過剰生の処理」へ向けた問題となる。
・私はこの三つの前提から出発したい。経済学の主要な伝統は実はこの前提を持っていたのである。
第四章「経済学」の犯罪ーグローバル危機をもたらした市場中心主義
’70年代 経済学派
米国 新古典派 ①アメリカケインジアン ②シカゴ学派
英国 ケンブリッジ学派
カール・ポランニー:市場経済は特異な歴史的産物
ケインズの流れを汲むものは政府の賢明さを強調し、制度学派は慣習的な制度の重要性を説き、ラジカル派やイギリス経済学は階級関係を強調したのだ。
・’*80年代にシカゴ学派が勝利した米国経済学は世界から若手経済学者を吸収し、シカゴ学派に染めて世界へ送り返した。
・このことがいかにアメリカの経済的な覇権と絡んでいたかは決して強調しすぎることはない。
・私が経済学を研究していた頃の’70年代と比べると今日のその様変わりに驚かされる。多様な流派はほとんど姿を消し、もっぱらシカゴ学派流の市場中心主義だけが残ったのである。
・経済学は常に隠されたイデオロギーを含み持っている。中立的・客観的な経済学というものは存在しない。一定の角度からの現実の見方が内包されている。
**没価値的・中立的に装われたものの、背景と言わず隅々に、社会的にメジャーな価値観が埋め込まれている。当たり前すぎてその価値観がまるで裏側に隠されてしまったように、無意識の領域にしまいこまれている。現実的経済学・現実的政治、現実的社会…それらは価値中立的に見えて強固な価値観で支えられている。フェミニズムが見る男性社会のあり様を見るのと同じことだ。
・マルクス主義は経済学から文学部(フェミニズム)に引っ越した。
・ハイエクとフリードマン:市場秩序と市場原理主義
**新自由主義とマネタリズム。新自由主義と数学。
・需要要因ではなく、供給力が経済全体の総生産量を決める。供給を決定する最終的な要素は資源や労働量であるとする。
□市場主義経済学の命題 完全市場パラダイム
⑴失業は存在しない
⑵政府は景気を刺激することはできない
⑶景気変動は存在しない
⑷バブルは存在しない
第五章 アダム・スミスを再考するーー市場主義の源流にあるもの
・市場価格による需要と供給の均衡 限界需要・限界供給 微分による価格均衡
・ワルラス一般均衡理論
①無時間性②確定性③貨幣の中立性④消費の無限性
・「古典派経済学」アダム・スミス(「国富論」)、デイヴィッド・リカード(比較優位と国際水平分業)
++(Wikipedia)デヴィッド・リカード(David Ricardo、1772年4月19日 - 1823年9月11日)は自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出する事で経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。労働価値説の立場に立った。経済学をモデル化するアプローチを初めてとったことで体系化することに貢献し、古典派経済学の経済学者の中で最も影響力のあった一人であり、経済学のなかではアダム・スミスと並んで評される。彼は実業家としても成功し、多くの財を築いた。ユダヤ人++
・重商主義 富(金・銀の保有)を極大化するためには⑴輸出産業の補助・育成による輸出の増加 ⑵国内産業の保護による輸入の抑制
・重商主義者は一国の富を、あまりに不確定性の高い、不安定な構造の上に置いている。重商主義者は一国の富を、グローバルな商業網とグローバルな金融システムに依拠させようとした。商業を支える財政基盤は、イギリス国債とイングランド銀行券という「信用」に依拠している。信用という不確かなものに依拠している。
・重商主義の時代/グローバル化状況の中で「商業革命」(貿易の世界的ネットワーク)「金融革命」「財政革命」(自国貿易船を防衛するための軍備を整えるための国債の発行)はおこった。
第六章 「国力」をめぐる経済学の争いーー金融グローバリズムをめぐって
・経済における二つの思考(の対立)経済基盤をどこに置くか、商業/金融か農業/工業か。確かなものは何か。土地・労働が富を作り出すのか。
・マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
プロテスタントの倫理観(禁欲的勤勉と労働の組織化/経営)が、富の蓄積と資本主義を生み出した。富の蓄積は、神の意思に反するものではなくなった。
ウェーバーの二つの資本主義の区別 ⑴合理的・近代的市民的資本主義
⑵ユダヤ的な「賎民的資本主義」
・ゾンバルトの批判 ユダヤ人こそがプロテスタントに負けず劣らず合理性と抽象性と世俗内的禁欲の精神と勤勉さを発揮している。禁欲的で合理的な精神とグローバルに活躍するユダヤ人ネットワークが近代資本主義の発展の原動力だとゾンバルトはいう。それに加えて、祖国/大地を持たないユダヤ人の特性が、貨幣や金銀財宝という動産に価値優位を見出した。ユダヤ人の勤勉さは「貨幣」を増殖させることに費やされ発揮される。
□ケインズ経済学
・自由放任主義を説いたケインズは、転向する。
・金融グローバリズムは国内経済を不安定にする。海外からの流入資本は、その国の長期的な利益を考慮して投資するのではなく、自己利益の追求の為に投資するのであるから、状況変化によっては一挙に資本を引き上げることもありうる。
・グローバリズムの下では、投資家の私的利益の追求行動が国民全体の公的利益に一致する保証は、ない。神の見えざる手は機能しない。
・論文「国民的自給自足」の中でケインズは述べる。
現在のような標準化された技術のもとでの大量生産型の工業では、ほとんど似た製品がどこでも作れるようになるだろう。「豊かな社会」である先進国では工業生産はさして重要なものではなくなるだろう。それよりも住宅や生活に関わる多様なサーヴィス、生活のアメニティ、都市の景観といったものこそが重要となるだろう。そしてそれらは国際的商品ではなく、国内の商品なのだ。
しかもそれらは十分な利潤を生み出すものではない。だからわれわれは、そろそろ金融経済の利潤動機から離れなければならない。
「頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義は決して成功しない。それは知的でなく、美的でもなく、公正でもなく、有徳でもない。」
・金融グローバリズムのもとでの貨幣の投機的な運動、それこそが企業の長期的な投資を減退させるのだ。
<<図表>>
第七章 ケインズ経済学の意味ーー「貨幣の経済学」へ向けて
・経済学には、個々の企業や消費者の合理的な行動分析から始めて、それを合成した市場の働きを論じる「ミクロ理論」と、国民総生産や国民所得や失業の問題、経済成長といった経済全体の集計量を扱う「マクロ理論」がある。
ケインズ理論の功績は、個々の経済主体の分析や市場分析という「ミクロ理論」とは異なった「マクロ理論」を発見したことにある。例えば労働雇用量(失業率)がどのように決まるかは、労働市場というミクロの問題ではなく、GDPのようなマクロの集計量の問題だというのがケインズの発見だった。
(・合成の誤謬 ミクロ的には合理的でもマクロ的には非効率を生み出す事象。)
・ミクロ理論とマクロ理論がうまく接合しないケインズの経済学の欠点をついて、ケインズ有効需要の考え方は、否定された。
・短期的には一時的な失調が生じるかもしれないが、結局のところは価格変化によって市場経済は自動調整機能を発揮する。…これが新古典派の見解なのである。
・市場理論の出発点は、物々交換にある。物々交換を多数でスムースに行うために「貨幣」が発明される。貨幣を交換の媒体として、交換体系が広がって行く。これは市場の基本構造だ。
□交換価値の媒体としての貨幣から、抜け出て
⑴貨幣は経済活動が時間を通じて継続するために必要となる。
⑵貨幣は将来の不確定性とプラスとマイナスの両面で結びついている。物と交換された貨幣が、貨幣を持たない場合に比べて、将来における交換価値の実現の不確実性を減らす。しかし、交換した時点の交換価値を将来の時点で保証するわけではない。
⑶貨幣は、社会的な信頼に基づいてのみ、貨幣となる。
⑷貨幣はそのもの自体で価値を持たない。価値を持つのは、物である。貨幣は、将来において、貨幣と交換する、物の価値を代理表象する。(価値保蔵機能)
二者の登場する物々交換モデルでは、貨幣はいらない。三者の登場する時間のずれた物々交換モデルでは、<あらかじめ>貨幣が存在していなくてはならない。
□貨幣の形態
・現金、預金、債券、株式、
・流通(交換過程)から引き上げられた貨幣は、貯蓄としてその一部は生産者へ投資される。貯蓄された資金と投資される資金の需給を調整するのが金融市場。
□投機の場としての金融市場
・貯蓄され投資先を見出せない「過剰」資金は、投機資金として金融市場に向かう。
・金融市場に金融商品が作りだされる。株式、債券、信用取引、為替、…デリバティブ。
・貯蓄と投資を結びつける金融市場は、過剰資金と金融市場における金融商品の発明によって、自立運動を始める。実体経済との乖離が始まり、加速される。
投資と投機の対立、金融経済と実体経済の対立
□経済成長
・経済成長を生み出すものは、労働力の増加と生産性の増大である。生産性の増大をもたらすのは技術革新である。
・シュンペーターが述べたように、企業家の新たな製品への絶え間ない挑戦、過激なまでの創造的破壊や新機軸が経済を動かしてきた。
・絶対的欲望(生存のために必要な欲望)と相対的欲望(他人との比較、旧来商品との差異)
**絶対的欲望においては「差異」は欲望の駆動装置ではない。相対的欲望は、差異が欲望の駆動装置であり、欲望の全てになりうる。差異を生み出せば欲望を作り出せることになる。欲望、商品にとっては需要を作り出すことができる。逆に言えば、欲望を作り出さないと、需要はなく、商品は売れない。需要があるから、商品化するのではない、ということになる。作って見なければ、欲望に点火できない。*
第八章 「貨幣」という過剰なものーー「希少性の経済」から「過剰性の経済」へ
・クラ交換:マリノフスキー 「贈与ー返礼」
宗教的、政治的、儀礼的、社会的
・マルセル・モース「贈与論」 いつまでも生成状態にある交換
原初的で根源的であるこの交換を、われわれは「…でない」という形でしか表現できない。
ポトラッチ:大規模贈与から始まる。大変激しい競争的で敵対的で覇権的なモノの破壊であり、饗応であり、贈答である。
□レヴィ・ストロース
・「交換」を未開人は「贈与・受領・返礼」と分けて理解した。あるのは交換だけである。
・彼は、「言語」「貨幣」「女性」の交換の制度、言語的コミュニケーション、経済の体系、結婚と親族の体系こそが社会を構成する三つの「無意識の構造」だと述べる。
・言語学のフェルディナント・ド・ソシュールは、言語とは「意味するもの=シニフィアン」(記号表現)と「意味されるもの=シニフィエ」(記号内容)の恣意的な結合だと述べた。
□ゼロシンボルとしての貨幣
・指示内容は持たずに、純粋に象徴作用のみをもつ=ゼロシンボル
・「貨幣」は何を意味するのだろうか。それは決して生活の中で具体的な使用価値も有用性も効用も持たないのであり、その意味では何をも表象していない。
と同時に、それはすべての財と交換可能であるという意味では、あらゆるものを表彰しているとも言えるし、あらゆる使用価値を表彰しているとも言える。
だからこそ、貨幣は重商主義者が言ったように「富」を指し示すことができ、マルクスが言ったように、貨幣は「一般的等価価値形態」となりうるのである。
そして、それこそがレヴィ・ストロースがいう「ゼロシンボル」に他ならない。貨幣は人間の象徴作用において、純粋な「意味するもの=シニフィアン」になっており、それが表象すべき具体的な使用価値/有用性を持たない。それは純粋な「過剰性」と言ってよい。
・貨幣、貴重品、生贄/供え物
第九章 「脱成長主義」に向けてーー現代文明の転換の試み
「技術革新が活発になり、潜在的な生産力が増加して労働生産性が向上すればするほど経済成長は鈍化してきた。」
(ブランドは距離=希少性があるからブランドであって、誰もが買えるようになればもはやブランドではない。)
・希少性の原理
無限に膨らむ人間の欲望に対して、資源は希少である。従って、市場競争によって資源配分の効率性を高め、また技術進歩などによって経済成長を生み出すことが必要となる。
・過剰性の原理はこういう
成熟社会においては、潜在的な生産能力が生み出すものを吸収するだけの欲望が形成されない。それゆえ、この社会では生産能力の過剰性をいかに処理するかが問題となってくる。
・社会的な価値は市場では選べない。
・エマニュエル・トッド
民主主義とグローバル経済は両立しない。大衆の不満は、民主政治の中からやがて独裁を生み出し、民主主義が停止されるだろう。これを避けるためには、グローバル経済のレベルを下げる必要がある。
・グローバル経済のレベルを落とすということは、各国の社会・文化・経済システムの多様性を認め、国内事情に配慮した政策運営を採用できる余地を増やす事である。
・国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食料の自給率を引き上げ、国際的な投機資金に翻弄されないような金融構造を作ることである。▷▷「ネーション・エコノミー」を強化する方向へ舵をきる。
・成長主義という思い込み/強迫観念からわれわれを解き放つ必要がある。
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