2015-11-06

ロイターコラム:潜在成長率回復を阻む「真犯人」=河野龍太郎氏

 2015年 11月 5日 18:35 JST ロイター 
 多くの政策当局者がケインズ流のシンプルな「所得・支出アプローチ」ばかりで政策を語るようになったことは気がかりだ。日銀のように「期待に働きかける」などと装いを新たにするところもあるが、総需要喚起という点では、基本的な発想は変わらない。問題は、こうしたモデルでは政策規模が大きくなるほど効果も大きくなるといった結論しか得られないことである。効果が現れなければ、それは政策が十分ではないということになり、規模ばかりが追求される。 私たちは、個人消費が弱いとか、設備投資や輸出が弱いとか、とかく総需要の低迷を問題にしがちである。しかし、そうした支出の弱さには、単に需要が低迷しているといった分析では捉えられない問題が潜んでいる。

 <円安誘導政策は内需部門への課税、輸出部門への補助金に等しい>
 1つの問題は、私たちの所得獲得能力(付加価値の生産能力)が低下していることだ。潜在成長率そのものが低下している。短期的には、借り入れや資産売却を行うことで、所得以上の支出は可能である。しかし、永久に借り入れを増やすことはできないし、資産を切り売りすることもできない以上、私たちの支出は平均的に見れば、所得の伸びに規定され、その所得の伸びは付加価値を生産する私たちの能力、つまり人的資本によって決定される。
 この人的資本については、マクロ的に見ると大きく分けて2つの問題に我々は直面している。1つは少子高齢化の影響で、労働力の頭数そのものが減少していること。もう1つは、平均的な労働者の生産性の伸びが足踏みしていることだ。これらは、金融緩和で資産価格を一時的にかさ上げしても、解決される問題ではない。
 むしろ、アグレッシブなマクロ安定化政策を行って総需要を刺激すると、ぬるま湯となり、現状を変えるインセンティブが働かず、現状維持が積極的に選択されるケースが少なくない。この議論は神学論争になるので止めておくが、問題はアグレッシブな政策の長期化や固定化が、資源配分や所得分配を歪め、潜在成長率そのものを抑制することだ。
 1990年代以降の日本では、個人消費の回復の遅れが常に問題だった。そして、内需が脆弱で、追加財政を永久に続けることができない以上、輸出主導の景気回復を目指さざるを得ず、その場合、個人消費の回復が企業部門に比べて遅れるのは止むを得ないとされてきた。
 2000年代以降の日銀の「所得・支出アプローチ」が典型だが、2012年末に始まったアベノミクスでは明確にトリクルダウン(浸透)政策だと説明された(金利低下や円安によって、まずは企業の業績が回復し、最後に家計の所得が増えて個人消費が回復するのだと)。
 2000年代の長期の景気拡大局面では、円安によって輸出数量は大幅に増加し、輸出企業の設備投資が増えるところまでは何とか到達した。しかし、家計部門の実質所得の増加までには至らず、個人消費の明確な回復も見られなかった。戦略そのものが間違っていた可能性が大きいのだが、政策は再検討されず、むしろアグレッシブな金融緩和で超円安を目指すという戦略が採用された。それが2012年末から始まったアベノミクスだが、今回は超円安にもかかわらず、輸出数量の増加というプロセスの最初の部分も達成されていない。

 「所得・支出アプローチ」に固執すれば、効果が現れないのは、政策の規模が十分ではないからであり、効果が現れるまで、さらに金融緩和を追求し、一段の円安に誘導すれば良いという政策提言につながる。しかし、この政策は、内需部門に課税し、それを原資に輸出部門に補助金を与える政策に他ならない。日本では、製造業に比べて非製造業の生産性の低さがしばしば問題にされてきた。しかし、製造業が良く見える理由の1つは、円安という補助金が与えられているからではないか。
 製造業の経済活動が活発となれば、経済全体における利用可能な経済資源は限られているから、非製造業は利用できなくなる。人々が欲するサービスを新たに生み出す成長企業が非製造業から現れないのは、円安誘導策の弊害ではないのだろうか。そのことは、明らかに潜在成長率の低下要因となる。また、魅力的なサービスが非製造業から提供されないため、そのことも個人消費の回復の足かせとなる。
一方で、超円安という補助金を受け取る輸出部門が投資プロジェクトを国内で増やすと、そのことは、極端な円安の下でしか採算の取れない生産能力を増やすことになる。リーマンショック前の極端な実質円安を背景に電機セクターが国内で過剰ストックを積み上げたのは、その典型例だ。収益性の低い資本ストックを増やすことが潜在成長率の回復につながらないことは明らかだろう。

<分配の歪みもGDP低迷要因に、問われるマクロ経済運営の目的>
 振り返れば2000年代半ばに実質円安という極端なカンフル剤が打たれなければ、電機セクターは経営判断を誤ることもなく、国内生産能力の拡充の代わりに、収益性の高い新規ビジネスに打って出た可能性がある。もし革新性やデザイン性、コンテンツに自信があるのなら、生産工程を全て外部化しファブレス企業に進化することもできた。電子機器の受託製造サービス(EMS)やファウンドリーに進化し、モノづくりで徹底的に勝負するという選択もあり得ただろう。
 過剰ストックを積み上げた電機セクターの苦境は明らかだが、経済資源を奪われ、成長分野の出現を阻害された内需セクターのデメリットについては、出現しなかったがゆえに、計測不能で忘れがちである。
 いずれにせよ、2000年代に潜在成長率が低下した理由は、単に労働力が減少しただけでなく、超金融緩和の長期化・固定化を背景とした超実質円安の下で、収益性の低い過剰ストックが積み上がり、生産性上昇率も低迷、その後の資本蓄積が滞ったことが影響したと筆者は考えている。
 このことは、2010年代初頭にはすでに明らかだったはずだが、こともあろうに2012年末に開始されたアベノミクスで全く同じ過ちが繰り返されてしまった。正確に言うと、過ちを犯したのは政策当局だけで、輸出企業は当時の電機セクターの失敗に学び、極端な実質円安が進んでいるにもかかわらず、誘惑に耐え、今のところ国内投資を積極化させていない。
 とはいえ、今回は問題が小さいとも言い切れない。確かに過剰ストックが積み上がるという資源配分の問題は観察されていないが、大幅な実質円安の進展によって、所得分配が大きく歪められ、個人消費の回復を明らかに阻害している。分配が歪められても、現象面としては国内総生産(GDP)が低迷する要因となる。
 前述した通り、「所得・支出アプローチ」に立つと、基点の輸出増を何とか達成しようと、景気回復が始まった後も、金利を低く抑え、円安に維持しようとする。それでも所期の効果が得られないのなら、アプローチが間違っていると考えても良さそうだが、さらにアグレッシブな金融緩和を行い、円安を助長したのがアベノミクスである。
 しかし、その結果、家計の実質所得が抑制され、個人消費はさらに低迷している。筆者は早い段階から懸念を表明していたが、2014年年初に経済が完全雇用の領域に入ったため、円安になっても輸出数量はなかなか増えない状況になっていた。経済が完全雇用に達し、円安になっても、輸出数量が増えていない以上、円安は単に家計から輸出企業への所得移転に堕している。
 所得制約に直面し支出性向の比較的高い家計部門から、キャッシュ・リッチで支出性向の低い輸出企業に所得を移転することは、一般論として、景気拡張的に働くと言えるだろうか。
 もちろん、輸出企業の業績改善を反映して株価は上昇しているが、日本では株式を保有するのは限られた富裕層であり、その支出性向も当然、一般の家計に比べれば相当に低い。インバウンド消費が刺激されているといっても、要は外国人に対して大安売りを行っているだけであり、その代償に食料やエネルギーなどの日用品購入に日本人が割高なコストを強いられているのなら、一体何を目的にマクロ経済運営を行っているのかということになる。

<円高アレルギーが市場メカニズムによる景気回復の波及を遮断>
 ケインズ流の「所得・支出アプローチ」の視点に立った政策は、資源配分の歪みが多少生じるとしても、数量増で未稼働資源が減少することによって、何とか実行が正当化されていた。数量が増えていなければ、こうした政策は資源配分や所得分配を歪めるだけで、全く正当化されない。個人消費が弱いのは消費増税の後遺症だけではなく、円安によって家計部門の実質購買力が抑制されているためである。原油安のプラス効果がなかなか現れない理由の1つも、円安がその効果を相殺しているためだ。

 「所得・支出アプローチ」に囚われていると陥りやすい誤りなのだが、起点の輸出増を促そうとする努力が、終点の個人消費の足を引っ張ってしまう。新古典派的なメカニズムで考えると明らかだが、本来、景気回復が進めば、金融市場では市場金利が上昇し、そのことによって為替市場では円高圧力が生まれる。景気回復で短期的な自然利子率が上昇し、為替の均衡レートも増価するのである。そして金利上昇は家計の利子所得を増やし、円高は輸入物価の低下を通じ実質購買力を一段と改善させる企業部門が改善すれば、その恩恵は家計部門にも当然広がっていくが、その経路は雇用者所得を通じたものだけでなく、金利上昇や円高を通じたメカニズムも存在する。
 しかし、輸出への悪影響を恐れ、我々は、いつまでも金利上昇を回避し、円高を回避しようとして、市場メカニズムがもたらす景気回復の波及を遮断してきた。家計部門を痛めつける政策を20年も続けているのだから、個人消費が回復しないのも無理はないだろう。2000年代の長期の景気拡大局面において、企業部門は相当に潤ったが、家計部門への波及は限られていた。今回も、企業業績は大幅に改善しているが、家計部門は利子所得の上昇や円高を通じた実質購買力の改善を全く味わうことなく、いずれ後退局面を迎えるのだろうか。
 ゼロ金利政策や大量の国債購入政策、それらがもたらす実質円安を前提にした経済主体が増えれば増えるほど、収益性の低いビジネスばかりが増え、我々はますます、低成長から抜け出すことができなくなり、結局、政策も終わりを迎えることができなくなる。日本だけのストーリーとして終わるのだろうか。あるいは、この問題でもまた日本がフロントランナーとなるのだろうか。

*河野龍太郎氏は、BNPパリバ証券の経済調査本部長・チーフエコノミスト。横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)や第一生命経済研究所を経て、2000年より現職。

2014-03-10

Al Jazeeraが伝える311 アーカイブより


Radiation-leak fears at Japan plant - Asia-Pacific - Al Jazeera English リンク

Third explosion hits Fukushima Daiichi nuclear-power complex since earthquake and tsunami crippled its cooling systems.

このYoutubeには、フクシマ第一の爆発映像があります



日本の出来事が、こうしてきちんとまとめられて、ジャーナリズムとして伝えようとしていることに、感心します

2014-03-07

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』第四章インチキとごまかしの産物−人権

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』  2001年文春文庫

第一章 「いかがわしい言葉」 デモクラシー
要約へのリンク http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

第二章 「われとわれとが戦う」病い 第三章 抑制なき力の原理 「国民主権」
要約へのリンク http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_4.html

第四章 インチキとごまかしの産物 人権  要約

 仏教に「悉有仏性」(しつうぶっしょう)すべてのものにはことごとく仏性がそなわっているという教えがある。すべての人間のみならず万物が平等であるという思想なのである。
 悟りをひらくことの第一歩は、何かを「権利」として要求するようなさもしい根性を洗い流すことにあるのであり、「自由」とはまさにそのような執着から自己の心身を解き放つことにある。
 …そうした立場から見れば、次の「独立宣言」の一節は、ただ嗤うべき矮小さ、そのものでしかない。
 「われわれは、次の真理を自明のものと信じる。すなわち、すべての人間は平等につくられている。すべて人間は創造主によって、誰にも譲ることのできない一定の権利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、及び幸福の追求が含まれる」 
 宗教といえばキリスト教しか知らない、当時のアメリカ植民地人にとっては、これは十分に「自明の真理」であったに違いない。
 ところで、「独立宣言」を手本として作られた「人権宣言」においても、「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」という権利には、それに見合った「神聖な義務」については完全な沈黙がある。これは一方的な義務なき権利なのである。
 一口に言って「人権」の概念は、こっそり裏側では神に頼り、神のご威光によって正当化しておきながら、それと一対となるべき「神への義務」に頬かむりを決め込んでいる、そういう代物なのである。

 人民が結束して政府を作るのは、「人権」の確保のためであり、「国民主権」のもとで人民が同意を与えたとき、はじめて正当な政府として認められる、という筋書きがある。政府がその大目的に肯かなくなったとき、人民はその政府を改廃する権利を持つという筋書きである。国家の指導者を悪玉扱いして引きずり落とそうとする性癖がギリシャの時代からあった。デモクラシーとはその性癖をイデオロギーとして掲げる運動なのだ。人権はこの運動の原動力として使われている。

 わたしたちには権利があるという発想は、本来は知恵を出し合って解決してゆかなければならない問題を、権利を主張しあうことでいたるところで単なる闘争に変えている。権利の概念が人々の思考停止を招いているのである。
 そして様々な権利の合唱の果てに、「絶対的恣意的権力」の幻だけが残って、結局は国家や大企業が悪者である、という気分のみが漂うことになる。
 「人権」の呪縛を断ち切ったとき、はじめて我々は本当の「国民のための政治」を考える出発点に立つことが可能なのである。


----以上、民主主義擁護の立場からではなく、著者の言わんとしたことにできるだけ忠実に要約したつもりである。言葉遣い・引用は原文そのままではない。孫引きには適しません。

第一章 「いかがわしい言葉」デモクラシー
第二章 「われとわれとが戦う」病い
第三章 抑制なき力の原理 国民主権
   国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
   惨劇を生み出す原理--国民主権
第四章 インチキとごまかしの産物 人権
   義務なき権利
   独立宣言のインチキ
   革命のプロパガンダとしての人権
   人権 この悪しき原理
   とどまるところを知らない「人権」の頽廃
結語  理性の復権

ー 完 ー

2014-03-04

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』第三章抑制なき力の原理「国民主権」

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』  2001年文春文庫

第一章 「いかがわしい言葉」 デモクラシー
要約へのリンク http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

第二章 「われとわれとが戦う」病い
 ギリシャにおける政治の変遷
 民主制・僭主政
 本物の僭主、狼と化した指導者は、近代デモクラシーにおいて、あるいはロベスピエールとして、あるいはヒトラーとして出現したのではなかったか?これらの怪物がどこから生まれてきたのかを見ようとせずに、ただ「恐怖政治」「ナチズム」「ファシズム」と読んで、それと敵対するのみなのである。

第三章 抑制なき力の原理 「国民主権」

主権とはなにか
 「主権とは国家の絶対的で永続的な権力である」とジャン・ボダンは定義する。つまり、国家は自らの法を定め、国政を行うにあたって、他からの権力に従うことなく、独立してそれを行いうる、ということである。主権概念の定義付けの出発点において、対外的な主権と国内的な主権とが、同じ一つの概念として、表裏一体にして定義づけられていることを忘れてはならない。国家主権を忘れて国民主権にかまけるということは、本来通用しないのである。
 絶対王政において専制君主に属する国家権力・政治権力は「正しさへの義務」と王権神授説的な根拠付けが一対となって結びついていた。君主主権そのものが専制君主の圧政を許すものではなく、フランス革命をそれへの反抗として当然のように起こったと見るのは単純に過ぎる。

英国の政治体制 立憲君主制
 英国では、その成り立ちから征服王と土着の国民との間に分裂と対立をはらんではいるが、王権と慣習法との均衡と調和の政治が行われていた。
 慣習法とは、歴史的に形成された過去の無数の人々の叡智と体験の結晶であり、また起源を知ることができない。

 英国の国政は、ボダン流の主権論が入り込むことによって、本来の形から大きく逸らされてしまったのであるが、そこから再び「古来の憲法」を見出すというかたちで、むしろそれまで以上に明確な自己自身を回復した。 英国の革命は、レヴォリューション=転がって再びあるものへと立ち返ること、「回帰としての革命」であった。分裂と対立の病を克服して自己自身を回復したところにその核心がある。
 英国人たちには、先人の知恵を尊び、現代の人間たちの傲慢を抑えるという伝統が出来上がっていた。

 フランス的な「国民主権」の概念は、英国の国政が例外的にコントロールを失い、国王対国民の対立がむき出しの「闘争」となったことに刺激され、君主主権を逆転して、国民の力を国政の支配者に立てる、という形で出来上がったのである。これは、大陸の主権論と英国の憲法とが、最も不運な結びつきをしたところに出現した。
 一口に言えば「国民主権」の概念は「抑制装置を取り外した力の概念」である。この概念は国の内側に対しても外側に対しても、歯止めのない暴力性・闘争性を発揮した。
 多くの人々は近代戦争が陰惨で激越なさまを眺めて、「ナショナリズム」の引き起こしたものであると考える。しかしそれは国家主権と表裏一体の国民主権の概念が、外側に対して発揮したものなのだ。

 国民主権の歴史的性格は、今もなお、民主主義の中心的理念の一つとして、その毒を発し続けている。

----以上、民主主義擁護の立場からではなく、著者の言わんとしたことにできるだけ忠実に要約したつもりである。言葉遣い・引用は原文そのままではない。孫引きには適しません。

第一章 「いかがわしい言葉」デモクラシー
第二章 「われとわれとが戦う」病い
第三章 抑制なき力の原理 国民主権
   国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
   惨劇を生み出す原理--国民主権
第四章 インチキとごまかしの産物 人権
   義務なき権利
   独立宣言のインチキ
   革命のプロパガンダとしての人権
   人権 この悪しき原理
   とどまるところを知らない「人権」の頽廃
結語  理性の復権

2014-03-01

荒れ野の40年 Richard von Weizsäcker

荒れ野の40年
 ワイツゼッカードイツ連邦大統領演説(全文)
       1985年5月8日

5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。

われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべておりす。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。

ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。

虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。

銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。

ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス——これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。

積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。

はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。

死者への悲嘆、
傷つき、障害を負った悲嘆、
非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
空襲の夜の悲嘆、
故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、
捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆——こうした悲嘆の山並みです。

今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。

彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。

暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。

歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪——これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。

この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。

シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。

目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。

まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。

物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。

かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか—— このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)——われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。

ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。

ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。

しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。

しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。

故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。

この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。

何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。

五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること——これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。

これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。

1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった——こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。

ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。

いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。

      
戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。

ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる

五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。

戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。

傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。

——第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。

——人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。

——独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。

——中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。

——東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。

ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。

東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。

人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。

われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。

われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。

人間は何をしかねないのか——これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。

道徳に究極の完成はありえません——いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。

ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。

若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、
ユダヤ人やトルコ人、
オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。

民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』 第一章 要約

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』  2001年文春文庫

(要約)
第一章 「いかがわしい言葉」 デモクラシー
 われわれが知っているのは、単に民主主義が掲げてみせるいくつかのスローガンにすぎない。われわれは、自分たちもよく知らないイデオロギーを、何の吟味もなく受け入れている。この百年間わたしたちは、知的怠惰の中にいた。

 成熟しないフランス人によって、時にはジェノサイドの様相を呈するほどの惨禍をもたらす恐怖の革命は、デモクラシーの名のもとに繰り返された。
 デモクラシーは、社会主義の温床でもあった。
 共同体的生活の破壊はデモクラシーに潜む本質的問題点の一つである。

 民主主義が正当な言葉に突如なったのは、第一次大戦において戦勝国が正当化の根拠として、このイデオロギーを使ったからなのだ。
 ヴェルサイユ条約によって世界大戦開戦の戦争責任をドイツ皇帝一人が背負うことになった。

 もしも人々が、知的欺瞞にとらわれることなく、客観的事実をありのままに見たならば、第一次大戦を引き起こした原動力は、ほかならぬ「民主主義=デモクラシー」と呼ばれる原理と現象の内にあったことに気付いただろう。
 「どこの国でも君主がもっとも戦争に消極的で下へ行くほど好戦的傾向が増大し、大衆が自発的に戦争準備に入ることを押しとどめる力は君主たちにはなかった」(入江隆則)民主主義の大洪水の中で、民衆が自らの意向で戦争に飛び込んでいった。
 ヴェルサイユ体制の核心部分であるワイマール憲法は戦勝国に押し付けられた民主主義という欺瞞のイデオロギーであり、理性を持ったドイツ国民にとっては耐え難い屈辱だっただろう。その屈辱の果てにニヒリズムを育て上げたドイツはもう一度、民主主義の大洪水、ヒトラーのナチズムに見舞われることになる。

 民衆の熱狂を煽り立てたヒトラーは最もデモクラシー的な指導者だったのである。彼は自ら堤防を爆破して「民主主義の大洪水」を引き起こした。これを人々はナチズム、あるいはファシズムと呼ぶ。しかしその正体は何かと言えば、フランス革命以来一貫して変わらぬ「抑制のないデモクラシー」に他ならないのである。
 ナチズムがある意味民主主義に依拠していたことに目をつむり、異常性を強調することで「(正義の連合国)民主主義 対(悪の枢軸国)ファシズム・ナチズムとの戦い」という図式を戦勝国は第二次世界大戦全体に当てはめた。

 「大東亜戦争」は、ごくありふれた「強力な国家の圧迫に対する弱い国家が反撃に転じる」というメカニズムで起こった自衛の戦争であった。戦争当時の日本においては人間一人一人が、民主主義的な大衆的熱狂に囚われることなく人間として尋常に振舞っていた。ヒステリーやパニックといった精神の病理とは無縁の人々の態度を可能にしたのは「民主主義」でなかったことだけは確かであった。

 おそらく、理性的な目をもった宇宙人が現在の地球を見るならば、世界全体を民主主義という言葉をいかがわしいとも胡散臭いとも思わなくなったこと自体が、現在の世界のいかがわしさである、と言うに違いない。


----以上、民主主義擁護の立場からではなく、著者の言わんとしたことにできるだけ忠実に要約したつもりである。言葉遣い・引用は原文そのままではない。孫引きには適しません。

第二章 「われとわれとが戦う」病い
第三章 抑制なき力の原理 国民主権
   国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
   惨劇を生み出す原理--国民主権
第四章 インチキとごまかしの産物 人権
   義務なき権利
   独立宣言のインチキ
   革命のプロパガンダとしての人権
   人権 この悪しき原理
   とどまるところを知らない「人権」の頽廃
結語  理性の復権




2013-09-22

iPhone買い替えとiOS7アップデート

国内三社は非情のApple販売戦略によって新規参入のDocomoを加えた三つ巴消耗戦突入を余儀なくされた。年末にはiPhoneの値引き合戦がさらに激化しているだろう。新機種に買い換えるのはそれまで待つことにする。
数カ月後にどうせ買い換えるなら機能的に不満のないiPhone4S/iOS6からiOS7へのアップデートはしないでおこうかとも思ったが、(圧倒的に多数を占める皮相な感想を除いて)分析的にTLを眺めると自分の使い方ではアップデートはありのようだ。

結果、アップデートしてみても動作が気になるほど遅くなることもなく、iOS7の新機能を享受できそうだ。

参考記事:
1. 本当にiOS7にアップデートしていいのか
 http://www.excite.co.jp/News/reviewapp/20130920/E1379641349527.html?_p=1
2.意外な感動が! iPhone 4s / iPhone 5 / iPhone 5sを使ってみて感じた違い
http://www.gizmodo.jp/2013/09/_iphone5s_iphone_4s_iphone_5_i.html

2013-08-15

『アベノミクス、限界に近づく』WSJ

ウォールストリートジャーナル 【社説】  2013年 8月 13日 

『アベノミクス、限界に近づく』 - 要約 -
  
 8月12日に発表された成長率(第2四半期(4-6月)年率2.6%)がエコノミストの予想に達しなかった大きな理由は、企業投資の不振で、この部門は誇大にもてはやされてきた安倍晋三首相の経済再生計画の水準に達していない。投資の伸びのほとんどは、政府の刺激策と東日本大震災の復興支出によるものだ。これはアベノミクスが約束したものではない。

 金額ベースでなく数量ベースでみた輸出も回復しており、3カ月移動平均で見ると、6月は2月以降12%伸びている。だが、オリエンタル・エコノミスト・アラートのリチャード・カッツ代表によると、これは2008年の水準を依然25%も下回っている。そしてこの伸びの大部分は、中国向け輸出によるものだ。両国間貿易は昨年の政治的緊張で減少したあと、やっと部分的に回復している。

 こうしたことは全て、これまでに実施されたアベノミクスの弱さを示している。予想されたように、財政拡大は期待された乗数効果をもたらしていない。また、急激な金融緩和とこれに伴う円安も持続的成長を促していない。日本の企業は海外で値下げして市場シェアを拡大しようとしておらず、同じ外貨建て価格で販売して得られた収入を円建てに換算して利益を膨らませている。

 超円安が持続しないことが分かったことから、円の対ドル相場が1ドル=約102円に下落してから3カ月もたたないうちに96円程度にまで上昇したことは驚きではない。円安で輸出と輸出利益が増え、その主たる結果として考えられていた賃金上昇は、そのほとんどが1回限りのボーナスによるもので、基本給は小幅減少した。これも企業は景気拡大が長続きするとは確信していないことをうかがわせる。

 日本の経済政策をめぐる議論は、第2四半期のGDP統計が安倍首相が来年4月に消費税を現在の5%から8%に引き上げるに十分なだけ強力かどうか、という点ばかりに終始している。増税は経済がまずまず健全な時にしか実行できない。

ーーーーーーーーーー
(1)前原外相時代に引き起こされ安倍中国敵視政策として継続されている中国外交の失敗によって、日本経済は中国経済成長の果実を取り込むことができていない。
 米国は米中関係を対日関係より重要視していることは、首脳会談の開催や国務大臣・国防大臣の度重なる相互訪問、大規模な戦略的会話の開催によっても明らかだ。
(2)アベノミクスの成果は、実は野田時代と地続きの株高・円安、大規模財政支出によって支えられているが、いまだ自律的成長を促してはいない。
(3)経済的成果は輸出大企業に専ら取り込まれている。選挙前に唱えられた、賃金上昇は掛け声だけに終わっている。安倍約束はここでも果たされていない。
(4)ここにきて消費増税に関し消極的な意見表明がなされているように見えるが、野田”ポチのポチ”政権時にすでに(昨年6月)決着済みであり、関連法案は着実に成立されており、政権・マスコミ一体のポーズあるいは茶番だと思える。
(5)国民や国会審議を差し置いて、政府首脳によって勝手に約束された国際公約が優先されるのはおかしい、というのはそのとおりだろうが、TPPを見れば分かるように国境線を超えて、国際的なつまりはグローバル資本の意思が貫徹できるように世の中はすでに組み替えられていると思える。EUにおいても首脳たちが会議で約束したものが、国家の上位におかれているように思える。


2013-08-11

Bluetooth イヤホン


Sony SBH20 Mac OSX 設定

SonyのとってもちっちゃなBluetoothヘッドセットに、いいね!

夜遅くに大きな音で音楽やムービーを聴きたくなる時がある。もちろんそこはこらえて、周囲の迷惑を考えスピーカーのボリュームは絞っている。そのストレスから解放されたいが、ヘッドフォン/有線で本体と繋がれているのもイヤだ。無線で身動きの自由が確保できて手軽にそこそこの音質で聞けるイヤホンの出現を待っていた。
これまではBluetoothは音質が悪いし、接続にも問題があるとの評判だった。
オーディオについて色々参考にしているLeanAudio氏が、最近Bluetoothイヤホンを手に入れて詳しくその性質や性能についても書いているブログ記事をみて、わたしも購入する気になった。

手に入れたのは、つい最近発売されたSonyのヘッドセットSBH20。Amazonで3700円程度と安い。
Amazonのいくつかのレビュー通り、セットされているイヤホンは素人のわたしでもちょっと納得いかない音質だったが、レシーバー本体のその小ささ/軽さ、接続のイージーさ、そして音楽再生6時間/待機200時間というバッテリー性能…は気に入った。
腕時計の本体くらいの小ささのレシーバーだが、イヤホンジャックが備わっているので手持ちのイヤホンに取り替えられるのもいい。

iPhoneには、問題なく接続できた。
ところがMacMini/OSX マウンテン・ライオンに接続すると、音割れ&音飛びが起きた。うわさ通りのBluetoothの悪さがでた。ありゃこれはしまったと思わされた。

そこでまずSBH20をマニュアルを参考にリセットした。音飛びが解消した。
そして、システム環境設定を開いてBluetoothとスピーカーの設定をしたのだが、これではうまく行かなかった。



そこで、Google先生に教えてもらって、デスクトップ画面上部のメニューバーのスピーカーマークをキーボードのオプションキーと同時にクリックすると、メニューに”SBH20”とは別に”SBH20 Stereo”と云う項目が現れる。これにチェックマークしなおすと、問題は解決されて、音割れなし/音飛びなしのイヤホン本来のクリアーな音が流れだした。

いや、満足! 

ウォーキング時には、iPhoneとイヤホンが切り離されて、コードに邪魔/制限されることなくiPhoneをポケットに入れてもバッグにしまっておけるし、必要なら取り出してiPhone本体をいじってアプリ操作も自由にできるし、さらに軽快になった。

レシーバー単体で購入できるチョイスがあってもいいが、付属のイヤホンが使えなくてもこの値段ならコスパも悪いとは言えない。



2013-08-01

逆さまの全体主義  ーシェルドン・ウォーリン


 逆さまの全体主義
    ー企業権力に支配されたアメリカ政治の病理ー
                                2003年5月19日付 米ネイション誌プリンストン大学 名誉教授
  シェルドン・ウォーリン



 イラク戦争がアメリカ市民の注目を独占したために、自国で起きている体制の変動(regime change)を目立たなくする結果となった。われわれは、イラクにデモクラシーをもたらし全体主義体制を倒すために侵攻(invade)したかもしれないが、その過程でわが体制の方が全体主義に近づき、デモクラシーがさらに弱まりつつあるのではなかろうか。こうした変動は、以前にはめったにアメリカの政治体制に適用されることのなかった二つの政治用語が突如、一般化したことに暗示されている。すなわち、「帝国」(Empire)と「超大国」(superpower)という表現はともに、集権的で膨張的な新しい権力のシステムが出現し、既存の用語に取って代わったことを示唆している。「帝国」と「超大国」は、正確にはアメリカの対外的な権力行使を象徴する表現であるが、それだけにアメリカ国内への諸影響を覆い隠すものとなっている。もしわれわれが「アメリカ帝国憲法」("the constitution of the American Empire")とか「超大国デモクラシー」("superpower democracy")などといった言い方をしたなら、いかに奇異に聞こえるか想像してみてほしい。こうした言葉遣いがおかしく響くのは、「憲法」が権力の制限を意味し、「デモクラシー」が通常、政府への市民の積極的な関与と市民の意向への政府の応答を指すものだからである。「帝国」と「超大国」は、権力の制限からの逸脱と一般市民の萎縮を意味している。

 国家権力の拡大とその国家権力の統制を目的とした諸制度の衰退は、かなり前から見られる現象である。アメリカの政党システムは、評判の悪いものの一例である。アメリカ史においては珍しい現象であるが、共和党がきわめて教条的、熱狂的、無慈悲で、反民主的な政党と堕し、辛うじて過半数を占めているにすぎないにもかかわらず、多数党であると豪語する有様である。このように共和党がイデオロギー的に不寛容になっているなかで、民主党はリベラルの看板と批判精神を有し改革を志向する同党の支持層を捨てて、中道主義(centrism)を奉じ「イデオロギーの終焉」を補強している。真の反対党であることをやめることで、民主党は、国外で帝国化の促進を、国内では企業権力(corporate power)を促進するためにその権力を用いたがっている共和党の政権への道を容易なものとしている。20世紀のあらゆる全体主義体制において、大衆的基盤を有しイデオロギーに駆られた、無慈悲な政党は、決定的に重要な要素であった。

 代議制度はもはや、アメリカの有権者を代表していない。逆に代議制度は麻痺状態にあり、制度化された賄賂のシステムによって着実に腐敗してきた。この賄賂システムによって代議制度は、大企業や最富裕層を支持者とする有力な利益集団の意に沿うようになった。裁判所については、次第に企業権力の手先となり、さらに一貫して国家安全保障の要求を尊重している。選挙は、巨額の資金が費やされながら、せいぜいで有権者の半分しか投票に参加しない単なる行事と化した。また、その有権者が得る国内・国際政治に関する情報も、企業が支配するメディアのフィルターを通した偏ったものとなっている。市民は、横行する犯罪やテロリストのネットワークに関するメディアの報道や、検事総長によるあけすけな脅し、失業の恐怖などによっていいように操作されて、不安な心理状態に置かれている。ここで決定的に重要なのは政府権力の膨張だけでなく、立憲主義的な制限に対する不信感がとどめようもないものとなっており、市民を幻滅させ、政治的無関心の状態におく制度的過程が存在していることである。

 以上の意見が一部の人間から心配しすぎであるとして簡単に片付けられてしまうであろうことはあきらかであるが、わたしはさらに議論を進め、現れつつある政治体制を「逆さまの全体主義」(inverted totalitarianism)と名づけたい。この「逆さま」ということで、わたしが云わんとするのは、既存の体制とその運用における無制限の権力と攻撃的な膨張主義に対する激しい欲求の点ではナチズムと共通している一方で、その手法や行動はナチズムとは逆であるように思われることである。たとえば、ナチスが政権に就くまえ、ワイマール・ドイツでは、街頭は全体主義を志向するごろつき集団に占められ、デモクラシーがあるとすれば政府内に限られていた。しかしアメリカでは、きわめて活発なデモクラシーは街頭に存在し、真の危険は暴走し次第に抑えが効かなくなってきた政府にある。

 「逆さま」のもう一つの例を挙げよう。ナチスの支配下にあっては大企業は明らかに政治体制に服従していた。しかし、アメリカではこの数十年間、企業権力が政治的エスタブリッシュメントにおいて、とりわけ共和党においてきわめて優越した立場にあり、政策にも大きな影響力をもったために、ナチス期とは正反対の形での立場の逆転が生じたことである。同時に、ナチス支配下において全体主義化の推進力は「生存圏」(Lebensraumu)といったイデオロギー的観念によって供給されたが、今日のアメリカで全体主義化の推進力を生み出しているのは企業権力である。この企業権力は、資本主義の原動力や、科学技術と資本主義との統合によって入手可能となった無限膨張的な力を代表している。

 アメリカ国内には、ナチス体制下の拷問や強制収容所、その他のテロルの装置に相当するものは存在しないという反論もあろう。しかし、われわれはつぎのことを想起すべきである。すなわち、ナチスによるテロルは、たいていの場合、国民一般に直接向けられたものではなくて、むしろ、拷問のうわさなどによるある種の漠然とした恐怖を広めることが目的であった。そして、こうした恐怖によって、大衆を管理したり操作することが容易となったのである。もっと言えば、ナチスは、国家のための際限のない戦争や膨張、献身を熱心に支持する、動員された社会を望んでいた。

 ナチスは大衆に集団のもつ力や強さの感覚、「喜びによる強さ」(Kraft durch Freude)を付与しようと努めたが、「逆さまの全体主義」は弱さの感覚、集団的無力感を助長している。ナチスは、継続的に動員された社会、すなわち、不平を言わずに体制を支持するだけでなく、定期的な国民投票において熱狂的に賛成票を投じてくれる社会を欲したが、「逆さまの全体主義」は誰も投票しない、政治的に動員解除された社会を望んでいる。9月11日の大惨事の直後にブッシュ大統領が発した言葉を思い出してほしい。かれが不安がる市民に向かって言ったことは、「団結し、お金を使ってください。そして飛行機に乗ってください」("Unite, consume, and fly")であった。テロを戦争になぞらえながらも、ブッシュは戦時における民主的指導者に慣例となっていることを避けた。すなわち、市民を動員し、差し迫った危険についての警告を発し、市民全員に戦争への参加や協力を強く勧めるといったことをしなかったのである。「逆さまの全体主義」は、すでに一般化した不安をさらに煽る手段を有している。突然の警報や定期的な発表である。発表されるのは、最近発見されたテロリスト集団に関するものや、怪しい人間の逮捕、外国人に対する厳重な取り扱い、グアンタナモ湾の地獄島、拷問を用いた、もしくはそれに近い尋問法に急に興味をもつことなどに関するものである。しかし不安を煽る手段は、こうした警報や発表だけではない。容赦のないリストラを行う企業経済や、年金や医療給付の廃止や削減によって不安感を拡げることもある。とりわけ貧困層に対して、社会保障やただでさえ小額の医療給付を自己負担にするぞと情け容赦のない脅しをする企業寄りの政治システムもまた不安を醸成している。そして「逆さまの全体主義」において、不確実性と従属性を強めるこうした諸施策に加えて、厳罰主義を採り、死刑を積極的に容認し、常に弱者に厳しい偏向を有する刑事司法システムが用いられることは、過剰殺戮に近いものがある。

 かくして、諸要素は揃った。弱い立法府。迎合的でありながら、抑圧的でもある司法制度。与党としてであれ野党としてであれ、コネを多くもつ富裕層や企業からなる支配階級(ruling class)を常に支えるべく既存の体制を再編することに熱心な共和党が存在する政党システム。より貧しい市民を無力感と政治的絶望感のなかに放置する政党システム。同時に、失業の恐怖とニュー・エコノミーの回復による途方もない報酬への期待とのあいだで中産階級をやきもきさせる政党システム。こうした構図をいっそう推し進めているのは、迎合的で次第に一極化しつつあるメディアや、後援企業と結びついた大学、豊富な研究資金を提供されたシンク・タンクや保守的な財団・基金といった形に制度化されたプロパガンダ装置である。さらに、テロリストや疑わしい外国人、国内の反体制派の特定を目的とする国家の法執行機関と地方警察とのあいだの協力関係も深まりつつある。

 われわれが直面している問題は、かなり自由な社会から20世紀の極端な体制の一変種への意図的な変容がはかられていることにほかならない。この脈絡において、2004年の大統領選挙は、危機(crisis)の元来の意味である岐路(turning point)となろう。市民に投げかけられた問いは、いずれの道をとるかにある。
(2003.8.3, 2004.2.9一部修正)
                                   (訳者=中野 直樹)
Original Title: "Inverted Totalitarianism", The Nation, May 19, 2003.
Author: Sheldon Wolin.

※本稿は、杉田敦氏による既訳「逆・全体主義」(『世界』8月号、岩波書店、所収)を一部参考にして、訳出したものである。
  なお副題は、訳者が書き加えたものであることを付記する。

                                        

2013-06-23

できたら

できたら          (谷川俊太郎)

素顔で微笑んでほしい
できたら
愛に我を忘れて
その瞬間のあなたは
花のように自然で
音楽のように優雅で
そのくせどこかに
洗いたての洗濯物の
日々の香りをかくしている

かけがえのない物語を生き抜いてほしい
できたら
小説に騙されずに
母の胸と
父の膝の記憶を抱いて
涙で裏切りながら
涙に裏切られながら

時を恐れないでほしい
できたら
からだの枯れるときは
魂の実るとき
時計では刻めない時間を生きて
目に見えぬものを信じて
情報の渦巻く海から
ひとしずくの知恵をすくい取り
猫のようにくつろいで

眠ってほしい 夢をはらむ夜を
目覚めてほしい 何度でも初めての朝に

    
               谷川俊太郎 自選詩集より

2013-03-06

気候の境目

このあたりは、冬季には、気象庁の気候区分でもわかるように、近畿の北部と南部の境目となる。つまり、厚い雲に閉ざされる日本海気候と、カラッと晴れている太平洋側気候とが交差するところなのだ。
微妙にその境目がこの辺りで上下して、曇ったり晴れたり/雪が降ったりあがったりする。その変化は、短いものでは数時間のうちに起こる。そして年によってもこの境目は、この辺りを南下したり北上したりする。今年は少し南に偏っていたのか、厚い雲に閉ざされる日が多かった。
啓蟄もすぎ、春の陽射しが一際ありがたく思える年だ。

2012-12-26

安倍自民党の圧勝と日本の右傾化

2012.12.17

 2012年12月16日の総選挙において、安倍自民は単独完全過半数を獲得し、民主党から政権を奪い返した。連立を組む公明党と合わせて320議席ほどの再議決可能議席も確保した。
 しかし、この獲得議席はほぼ小泉郵政選挙と同じであり、また事前に想定されていたという意味でも当時ほどの衝撃はない。また、国会内における政治情勢は民・自・公の三党合意=事実上の大野合が成立した時に完成されている。「新保守+新自由主義」による政権である。

 この政治潮流の危惧すべきところは、日の丸の旗で囲まれることを好む党首=首相安倍を産んだ国家主義的な右翼体質である。個人の基本的人権を認めず、政治・思想・結社・表現の自由を制限しようとする、片山さつき的な民衆の主権から国家主権へ移そうとする強権制を志向する政治体質である。外交においては排外主義・民族主義、軍事への傾斜である。

 烏合の衆とは、この三年間に見た民主党の国会議員達のことである。彼らは政権幹部たちの道具として、党内政策論議の輪の中の人格としての議員ではなく、(幹部によって)決められたあとの与党議案を可決させるための(人格を剥奪された)単なる一票としてしか扱われていない。解散・総選挙によって政権の失政の結果責任をすべて負わされ、愚かにも国会議員職から追われた。

 先に、三党合意による連立がなった時に右翼連合の政治潮流が決まったと書いたが、しかしこの総選挙の日は右派的な政治潮流を国民が選び取ったという意味で、メルクマールとして重要な節目として記録されていい。もちろん国民がその愚かさを発揮した日として。

 日本をめぐる極東地域において、ちっぽけな島をめぐる領土問題を除いてさしたる国家関係の緊張感も未だなく、経済環境においても①社会的格差=貧富の差が拡大・固定化されつつあるとは言え失業率などが危機的状況にまで沸騰しているとは言えず②財政もまたギリシャやEUのラテン諸国ほどただちに緊縮財政を強いられるほどではない。つまり国民は、危機をバネにした選択ではなく、社会的・経済的危機を先取りして、能天気な右翼を選び取ったのだ。安倍や石原が酔うほどの切迫感も、熱情も大衆の間に広がっているようには、僕には感じられない。

 とは言え、40歳より若い世代の視点からみれば、情勢はいささか違って見える。彼らが政治的アパシーを越えて右傾化する社会的な土壌があるように見えるのだ。

 Twitterには何度も書いているが、野田時代に始まった政治状況を「大政翼賛社会2.0」と勝手に呼んでいる。

2012-12-22

『フリーフォール』

読書ノート

副題:グローバル経済はどこまで落ちるのか
ジョセフ・E・スティグリッツ
出版:2010.2
1943年生まれ
クリントン政権時 経済諮問委員会 世銀副総裁


■序章
□2008年危機
・(世界で数千万人が失業するという)このような事態は想定されていなかった。自由市場とグローバル化に信をおく…。ニューエコノミーは、規制緩和や金融工学など、20世紀後半を特徴付ける驚異的なイノベーションの総称であり、より優れたリスク管理を可能とし、景気循環を消滅させるはずだった。少なくとも景気変動のショックを和らげるはずだった。
・四半世紀の間、幅を利かせていたのは、自由市場至上主義だった。

・アラン・グリーンスパン/ロバート・ルービン/ローレンス・サマーズ

・この危機が金融セクターで露わにした問題点はより一般的であり、他の領域にも似たような問題があることが明らかになっている。間違った経営者へのインセンティブ・報酬などの単に劣悪な企業統治の問題ではない。
・新型金融商品・サブプライムローン・債務担保証券(CDS)。金融工学により新たに開発された金融商品、手口により銀行/金融機関は投資を募りレバレッジを効かせて自ら投資行動をすることができたうえに、損失を先延ばし/目隠しする事が可能であった。このことはリスクを分散させるどころか実は危機を深化させた。
・ウォール街の住人たちは千年に一度の嵐の不運な犠牲者だと思いこんでいる。しかし危機は気まぐれに金融市場を襲ったりしない。それは人為的なものであり、ウォール街がみずからに対して、そして社会全体に対して行ったことの結果なのである。
・自由市場至上主義者は、今もなおある確率で仕方なく起こるように、腐ったリンゴが混じっただけだと看做してシステム全体の問題から眼を背けている。
・市場は何度も誤りを犯し続けてきた。金融機関を救ってきたのは政府なのだ。

※実質は、政府の権力を使って金融機関の損失を国民に押しつけてきたのだ。2008年金融危機後に表面化したウォール街の巨大損失を米国は多国籍の枠組みを使い、各国に負担させ、国内的にも金融街およびGMに対し巨額の救済資金を投入した。使われたのは、国民の税金あるいは国債である。

※経済単位をミクロ・マクロに巨大化させるグローバル経済そのものが間違っているのではないか。EUの失敗は、経済単位を巨大化した地域統合が間違っていることを指し示しているのではないか。もっと小さな単位で、つまり今までの国家単位程度の大きさの経済領域の方が、必ず起こる景気後退の波や、危機をより小さくとどめる事ができるのではないのだろうか。米国という巨人の存在自体が間違っているのだ。たやすく”いびつ”になり、”いびつ”になればそれを容易に修正できない巨人が(他人の犠牲の上で)自由に活動するような世界システムを構築してはならないのだ。

※価値観は、結局のところ米国では、分厚い中間層を形成したケインズか、億万長者をスーパーリッチに押し上げたフリードマンかに分かれるのだ。私たちは少なくとも社会格差を拡大させ続ける道を選ぶべきではない。

※ポストモダンとはシステム的に腐ったリンゴたちを生む世界のことではないのか。


第一章 金融の暴走を許した者たち
・2008年の金融危機に関して驚かされたのは、あまりに多くの人が危機の発生に驚いたというその事実だった。少数派からすれば、あの危機は教科書通りの実例であり、予測することは当然可能だったし、実際予測されていた。
・低金利/金余りで規制の緩い市場と、地球規模の不動産バブルと、サブプライムローンの激増は有害な組み合わせというほかない。
※※
2008年金融危機と原発事故の比較において、有責者=犯罪者たちの言葉、認識が余りに似ていることに気付く。失敗は常に想定外か他人のせいなのだ。それが彼らエリートの性向なのだろう。他人への責任の押しつけによって、彼らの成果は勝ち取られてきたのだ。例えば、金融の利益の源泉はじつにここにあるのではないか。未来への押しつけ、他人への押しつけこそが金融工学の本質ではないのか。

・2002年ハイテクバブルの崩壊
・短期利益至上主義の住宅ローン商品の押しつけ販売
・銀行のリスク評価機能の喪失 (※日本のバブル期にも同じ事が起こっていた。貸し込み競争が、出世競争に繋がっていたのだ。営業部の突出。リスク資産の積み増し。単一商品=土地融資への集中。変動型金利ローンの開発・推薦)
・現代の錬金術師は、不動産保有を証券化することで、収入なき定年後の人生を生き延びるために積み立てられた年金基金をリスク商品の購入に導いた。
・この銀行の所業を賛美し、トリプルAの格付けを与えたのが格付け会社だ。規制緩和により銀行は直接ギャンブルに手を染めるようになった。
・銀行と規制当局は自分たちが作り出したぞっとするようなリスクを他社=他者に転嫁できると思いこんでいたのかもしれない。
・絶頂期の2007年米国の金融セクターは、企業収益の41%を占めていた。
・金融界が作り出した複雑な商品には二つの効果があった。リスクの増大と、情報の不完全性を生んだことだ。
・金融イノベーションは、バブルの生成に貢献したことは確かだが、経済の持続的成長に貢献したという証拠はない。
・CDS Credit Default Swap デリバティブ derivative
・フレディマックとファニーメイは民営化され規制緩和された企業
・(規制緩和論者たちは安易に、十分な規制緩和が行われてこなかったためにリスクヘッジが行えなかったというが)彼らは重要な点を見落としている。銀行を厳しく規制しなければならないのは、銀行が破綻した場合、経済全体への悪影響の波及効果が巨大なためである。(※それに加えて、そのことを理由に(社会全体の利益のためにという大義名分を掲げて)今度は政府による救済を求めるのだ。)
・規制緩和で得をした金融セクターの政治的影響力と、規制を不必要と断じるイデオロギー。

・短期収益至上主義者は《利益は先取りし、損失は先送りする》
※※市場至上主義の社会では、ミクロ組織の短期利益追求こそが善とみなされる。数値化し単純化して、単一の尺度に収斂させるのが米国的社会の形(ポストモダニズム)冷たい熱狂。金への執着。いびつな欲望。
・工業資本ではなく金融資本の性格。金融資本は事業会社の中に金融資本に相似形の組織=持株会社を作り込む。持ち株会社の本社は金融資本と同じ尺度で企業運営を行い、支配下におかれた事業部門を管理・監視する。さらに、みずから金融資本プレイヤーとして、企業の売買に及ぶ。


・バブル抜きには総需要が弱いまま推移しただろう。その原因のひとつは格差拡大の中で消費をする層から消費をしない層に所得が移転したためである。
・イギリスにも不動産バブルは起こったが、公的資金を受け取った銀行のトップは引責辞任した。オバマ政権のように無償提供はしなかったのである。
・※アイスランド 外国金融機関によって起こされたバブル崩壊の責任をとらされたのは、利益をむさぼった外国金融機関ではなく、遅れてやってきてババを引かされたアイスランドという狭い国境の内側に住む逃げることが許されない国民だ。ドリームファンドという名の悪夢は、グローバリズムの下で国境を易々と越えてやってきて、破綻という名前に変わったとたんに尻拭いは国境の内側で過剰に支払わされる。

・コミットメントの漸増(いったん一つの立場をとったら、立場を守る方向に強迫観念が働く)
・オバマの危機対応チーム(バーナンキ・サマーズ・ガイトナー)は、危機の種を蒔いた者たちであり、ウォール街の利益の代弁者だった。損失負担を、ウォール街にではなく納税者に負担させる政策を採用した。

・企業のリストラやコスト削減という名の労働者の解雇と賃金引き下げは、短期的に株価の上昇を招いても、近い将来に経済全体に悪影響を及ぼす。家計所得の低下がGDPの70%を占める消費にマイナス影響を与える可能性がほとんど必然と言っていいほど高いからだ。

□効果の薄い減税 減税は国家の債務を増加させていくのに反して消費刺激効果はほとんど期待できない。
・自動車や家電の買い換え促進プログラムは、確かに需要を喚起したがそれは未来の先喰いに終わった。長期的な景気悪化が見込まれるときには不適切な政策だ。
・連邦支出の増加は地方の歳出減によって相殺された。
・米国人の消費を持続可能な範囲で上昇させるためには貯蓄の余裕のある富裕層から有り金をすべて使わなければならない下層へと大規模な所得再配分を断行しなければならない。税金の累進性を強めれば所得再配分だけでなく経済の安定化も図れる。

□サブプライムローンのペテン
・サブプライムローン 借り手の自己責任を強調し、貸し手の責任逃れを可能にした。結果として脆弱な一般庶民が破綻させられる。
・銀行は数百万人の人々をそそのかし身分不相応の生活をさせ、老後の備えを危機に晒した。
・最前線の戦犯、サブプライムローンのセールスでさえ、自分の役割をこなしただけだと強弁できる。当事者からすれば、「契約増ー収益増」というリスクが捨象されたインセンティブに応じてローン契約を推し進めたに過ぎないのだ。
・資本増強と貸し渋り解消のためにそそぎ込まれた公的資金1750億ドルのうち330億ドルは経営者たちのボーナスとして支給され、1000億ドルは損失を帳消しすることに、残りは「配当」として株主に分配された。

※※
・金融救済プログラムにより、銀行や投資機関は、リスクが高いことでハイリターンな過去の収益はそのまま受け取り、損失は政府支出を通じて未来の国民負担から受け取る。
・日本の銀行は公的資金返済及び毀損された資本の手当のために、税金の支払いを猶予されてきた。その間、配当はどうだったのか?
・米国の不動産バブルの項を読んでいると胸が悪くなる。日本のあちこちで、まさにこのようにして銀行の不正なうそつき融資によって踊らされ、多くの人が破産に追い込まれたのだ。貸し手に都合のいい不動産鑑定士を連れてきて不当に高く見積もりさせ、融資をする。不動産屋が儲かり、ローン販売会社が儲かり、銀行や銀行の担当者が表向きにも裏でも儲かったのだ。契約するローンが借り手に不利であればあるほど、貸し手には多くの手数料と金利が支払われるのだ。借り手にとってリスクの高いローン契約を販売するインセンティブが構造化されていたのだ。

・リスクを見えなくする手法としての証券化
・信用格付け会社は、小さな将来リスクを評価できても、大きくて危険な将来リスクを、事前には評価できない。小さいリスクは少々外れたとしても小さな損失しか生み出さないので格付けなど不要だし、甚大な損失を生む未曾有のリスクは想定外に起こるので格付け会社は予測し得ない。つまり格付け会社によるリスク予測などクソの役にも立たないのだ。
□ブラックマンデーが起きる確率
・1987.10.19のブラックマンデーの大暴落は標準モデルによる計算では200億年に一回しか起こらない。少なくとも一生に一回しか起こらないだろうと思われるが、実際には10年に一度繰り返されている。

・住宅ローン・サービサー=債権回収代行業者の登場。債権回収に弁護士や業者に利益を生み出す新たなビジネスモデルが追加され、情け容赦なく債務者救済が毀損される。(※日本の公的サービサーは債権を買いたたき、また資産を超廉価で提供することで、結果的に中間層から超金持ち層への資産移転を行った。(結果的とは、ほとんどの場合意図的だという事だ)
・金融のメルトダウンが進行した。(※用語からしても、リスクの見積もりや経済人の行動にしても、原発と金融危機の構造はじつに似ている)

・金融セクターはさんざんイノベーション能力を喧伝しておきながら、リスクをアメリカの貧困層から取り去り、もっとリスクの高い層へ移転させるようなイノベーションは開発も提供もしなかった。
・例えば変動金利制度において、金利が上がるとそれに応じて満期日や返済期間を変動する商品を提供することも可能なのだ。(デンマークでは200年前からある)
(ノンリコース:資産から得られる収益のみを返済原資とするローン)

・エコノミストは銀行を経済の心臓と呼び、金融を血液循環に例える。心臓が病み、血液循環が滞ると経済がたちゆかなくなる。
(病んだ心臓は、確かに治療しなくてはならない。銀行家のためではなく経済のために。心臓部の欠陥は、取り除くという選択肢を含めて抜本的治療が必要かもしれない)
・循環を阻害した(利益至上主義の)非効率なシステムは、効率的で社会的に少しは公正なシステムに置き換えられなくてはならない。
・しかし米国政府(ブッシュ・オバマ)が採った銀行救済策の実態は銀行への巨額の贈与であり、納税者の目を欺く形で実行されている。
・金融危機が発生したとき、ブッシュ政権は銀行本体だけでなく、銀行家と投資家をまとめて救済することを決断した。そしてこの資金は透明性を欠いた形で供給された。
・何かが根本的に間違っていることを銀行家もその周辺にいる者たちも認めないし、過ちを犯したことさえ認めようとしない、…彼らが望んだのはとても完璧とはいえない既存のシステムを微調節した上で、2007年以前の世界へ、すなわち危機が起こる前の世界へ戻ることだったのである。

※※2008年のサブプライム危機に至るまでの金融工学によって新たに発明されたツールとは、日本のバブル発生時にに使われた”ふるい’”ツールである。米国は日本の危機から解決法を学んだのではなく、バブルの発生のさせ方を学んだのである。


・社会的利益と個人的利益の不一致。
・「大きすぎて潰せない」企業は、実は大きすぎて「経営不能」だったか、少なくとも舵の効きが悪かったのだ。
・人間の恐怖心を利用した謀略→大きすぎて財務リストラ=管財措置できないとの風評を広めた。
・システミック・リスク

・第三世界でこのような法案が通れば、それは間違いなく政府=納税者から銀行及びその後援者への大規模な再配分が行われることを意味する。財務長官ポールソンは、議会からポールソンへ白紙委任する法案を提案した。ポールソンはその出身地=ゴールドマンサックスとその仲間たちの代理人の役割を十分果たしたというわけだ。

・流動性の危機 自行は健全であると言い張る銀行が、他行の健全性に疑問を呈し資金を融通することを躊躇するようになった。他行の不健全性は自行の乱脈を経験している者には容易に推測が可能なのだ。

※※
(現状の日本のように低金利な国債にでも資金が向かうような投資先=借り手不足の状況で、産業への投資資金に不足がないとき)企業に外国に比べて相対的に重い税金を課せば、日本国に税金を支払うことをためらうような性悪な資本から日本の企業を守ることが出来る。


・銀行に税金を課せば経済効率性の向上と政府の歳入増を同時に達成できる。…しかし銀行はこう反論するだろう。課税によるコスト増は、民間からの資本調達を妨げ、金融システムの健全性回復の足を引っ張る。

※※政治こそが私的利益を優先するのではなく、国民国家全体にとっての利益=公共性を重視するモラル優先的な、誘導策(インセンティブ)を設計し、法案化することで市場の歪みを是正する必要がある。


・銀行の利害は、国民の利益から乖離しているだけでなく、経済全体の利害から乖離していた。(米国は金融界の利害に引きずられた)
※※
・世界最大の米国債保有者=中国は、日本と違って為替による減価を心配しなくて済む。(中国自身が為替管理を行っているため)インフレを起こさないように監視しているだけでよいのだ。インフレ抑止は米国内にもそのような自動安定化装置や勢力を持っているため、為替リスクに比べて中国の通貨危機の危険性は少ない。
・米国債は日銀にとって恒常的に減価していく不良資産だ。換金しない限り、つまりドルでおいておく限り減価しないと主張するなら、換金できないという点で究極の不良資産だ、と云っていることになる。

・ウォール街は持てる力と金を使って規制緩和を買い、ぼろ儲けをした。強欲ゲームのやり過ぎでバブルが崩壊すると、今度は同じ力を使って、自助努力することも自己破産させられることもなく、パブリックセクターから巨額の生活保護を厚顔無恥にも、せびり盗った。

・科学テクノロジーの進歩は金融リスク管理にも十分応用できるし、自分たちが開発した新しい金融テクノロジーによって生みだした金融商品によって、IT技術の進展によるバーチャル空間の拡大もあって、確かに利潤は拡大し続けた。10年ほども儲けが続くと、歴史書から学ぶべきものはすでになく、コントロール可能な新しい世界が到来したと、神童たちには思えたに違いない。

・金融業界は規制を求めるあらゆる動きに反対した。FRBも財務省も唱和したどころか、自由市場至上主義を主導した。ルービン財務長官、サマーズ財務副長官とアラン・グリーンスパンFRB議長が戦犯の名前だ。
※※
悪魔はどうしてこんなにもずる賢いのだろう。人々はどうしてこうも愚かなのだろう。大衆んの心理は、システムや枠組みの構造的問題こそが問題が引き起こすのだとは思わないように出来ているらしい。細部にはこだわるが、大局の動きには素直に従うか、無意識に目をそらす。※

※短期的成果給は、中下級管理者に適用するのが間違っているだけではなく、役員にもCEOにも適用するのは間違っている。

※銀行は透明性を好まない。透明性を実現した市場は競争が激しくなり、手数料を含め収益が低下するからだ。高度なリスク管理を行う事を目的に開発された金融商品は、極めて複雑に設計された。複雑化によって、金融市場はルールに定められたはずの透明性を失った。
 しかも、リスクは管理されたのではなく隠されていただけだということが、バブルの崩壊によって誰の目にも明らかになった。
※グラス・スティーガル法が廃止されたのは1999年。商業銀行と投資銀行の垣根が取り壊されてしまった。
※米国の銀行は寡占化した。その流れで日本の銀行も超寡占化した。独占禁止法に触れずに寡占化させるために使われた論理が、巨大な外国企業の存在だ。グローバル化した世界の中では大型化しないと競争にも勝ち残れないし、なにより買収される危険性が増した。米国の野放図な産業政策のあおりを受けないためには=伝染病を防ぐためのフィルターが必要なのだ。国境というフィルターによって消費者利益・国民利益は守られねばならない。

言葉 derivative デリバティブ 派生
   CDS credit derivative Swap
ロング ショート 値上がりに賭けるのがロング

・透明性/公開性の要求に対する金融界の決めゼリフは、”ビジネス上の秘密”である。ビジネス上の秘密がある取引をする場合は、それに対する自己責任を全うさせなければならないし、公的なものに関わらせてはならない。

・金融市場の甚だしい強欲さが顕著にみられるのは、大学生向け融資プログラムを継続させるために政治的圧力を使った場面だ。
・税制のありようは社会の価値観を反映させる。汗水垂らして働くことより、ギャンブルに精を出す投機家を優遇する必要はなく、いやそれははっきり云って不公平だ。
・米国の経済状態はGDPでみる程には良くない。30代男性の収入中央値は、30年前より低くなっている。
※米国大学の成功の秘密  ①ユダヤ人がいること②日本の進学校と同じく、優秀な人間を集めているから、優秀であること。

※民主的でもなく、国家統治にも長けていないことが明白な財務省=野田政権にその権限の増大をもたらす政策枠組みを与えることは間違っている。
・米国の優れた大学はすべて州立か非営利である。

※新自由主義的な仕組みでは、非雇用者=労働者には企業利益=全体利益に貢献する動機は見あたらない。アメとムチにより個々人の利益に直結する仕方=成果報酬型人事制度を導入することで、(短期の)企業利益の最大化が図れる。そのような利益誘導制度=インセンティブがない公務員は労働意欲がなく、民間企業のような効率的な組織運営が出来ない。→あらゆるサービスの民営化が必要である。

※スティグリッツはこう言う「市場がうまく機能し、機能しないかの問題は、詰まるところインセンティブの問題に行き着く。どんなインセンティブを与えたときに個人への見返りと社会的利益が合致するのか。」米国プラグマチスト哲学の正義論から離れることはない。
・金融業界への大規模な救済策は、ソ連崩壊時に国家財産が一部マフィアに集中的に譲渡されたときに匹敵するほどの富の再配分となった。

・市場に任せるか、規制をどの程度導入するか《制度の濫用は、透明性を高めた民主主義的プロセスを通じて点検していくしかない。》
・規制緩和というレーガンとブッシュのお題目は、政府への不信に基づいていた。※そうは思えない。むしろ金持ちの富の拡大欲望とそれを支持した大衆の大量消費欲望に基づいていたと思える。※
・企業への様々な減税や便宜供与などの利益供与が拡大され、セイフティーネットが供与されるのに反して、一般市民の福祉とセイフティーネットは削減された。
・G8は2007年まで、2008年の危機の後11月に初めてG20に拡大された。
・IMF資金提供条件
①中央銀行の金利引き上げ②財政赤字削減③銀行の民営化な
ど構造改革(民営化)④中央銀行の独立(政治・財政政策か
らの独立)
・これらの政策は債権国への資金回収を第一目的に立案されたもので、資金注入された債務国の景気回復や国民の生活維持の為ではない。したがってIMFによる管理はしばしば国民の激しい抗議行動を伴う。
・《朗報といえるのは、ドミニク・ストラウス・カーンが専務理事に指名されたことだ。彼の就任によってIMFがようやくケインズ流のマクロ刺激政策の必要性を認めた。》
※1989年ベルリンの壁の崩壊で、私たちは共産主義に終止符を打った。311を経てもなお私たち日本人は、この地震多発国で、核発電という巨大なリスクに終止符を打つことさえ出来ないほど愚かな政府/政府広報に徹し民意をゆがめるマスメディア/民意を汲み取ることの出来ない政治システム、に耐え続ける愚か者なのだろうか?※

・2008.9.15リーマンブラザーズ破綻によって、市場原理主義は終止符を打たれ、今日では、市場は自己修復できるとか、規制なき市場では参加者の利己的行動が全員の利益になるように機能するとかいう言説は、時代錯誤な詐欺師の言説であることが証明された。
・世界銀行とIMFはシカゴ学派のエコノミストに占められている。すなわちフリードマン流の新自由主義者たちだ。かれらは債務危機に陥った新興国に、金融部門の規制緩和、構造改革という名の民営化、貿易の自由化非関税障壁の撤廃を迫った。
※結果、各国で富の集中が起こり格差は拡大され、経済危機は何度も起こっている。民族資本が興隆するよりも、多国籍企業が各国に自由に参入するチャンスを拡大し、資本系列に置くことが出来るようになった。また金融市場の自由化は外国人投資家の自由を拡大した。ルールを多国籍企業に有利にしただけではなく、ショックドクトリンによって意図的に経済破壊を起こしたことが強く疑われている。
※米国の経済危機の際には、財政出動を行い金利を低下させたが、IMFは東アジアの新興国に対して全く逆の政策を押しつけたのだ。
※起こされた経済危機の中で、破綻を余儀なくされた金融機関は破格の値段で(優秀で効率的な経営を行うことが出来、金融テクノロジーのノウハウを持つ)時には国家によって、米国証券機関への手数料のおまけ付きで米国の投資家に売り渡された。
・トリクルダウン理論は、全くの幻想であった。もしくは詐欺だった。
※※政・官・経のエリートが愚か者であることが人間的に愚かであることを意味しても、統治する狡知において愚かであることを意味しない。橋下の品性の下劣さと、ポピュリストの才能に恵まれていることに似ている。
※多くの米国人は、比較優位すなわち各国が相対的に得意な分野の生産に特化する事で貿易が成り立ち、総体的な利益に貢献するメカニズムが理解できず、貿易相手国が政府の為替操作や補助金で不正なダンピングを働いていると信じ、非難してきた。
※農業には巨大なバッファ機能がある。他の産業へ供給できる余剰農業人口がある間は、労働者供給圧力が維持できるので産業の賃金は総体的に低く押さえることが出来る。農家は他産業に人口を拠出することで、所得の拡大が図れる。

以上

2012-12-21

『グローバリズムという妄想』ジョン・グレイ

" False Dawn " The Delusion of Global Capitalism. Published in 1998
John Gray

□□1.大転換からグローバル市場への道程

□1800年代19世紀の英国
・経済生活を社会的・政治的支配から解放する実験が行われた。(レッセフェール=自由放任主義)
・それまで経済活動は、社会的制約や規制の中で行われてきた。ヴィクトリア王朝の中期、社会的必要とは独立して動く、自由市場が登場した。『大転換』"Great Transformation"と呼ばれる。

・現在のアメリカは、多様性から単一の原理=普遍性へと向かって文明が進歩していくとする啓蒙思想理論にその政策の基礎をおく、最後の大国である
・「ワシントン・コンセンサス」(世界の政治的首都であるワシントンで形成されるアメリカ主導の合意)によれば、「民主的資本主義」は全世界に受け入れられなければならないし、グローバル自由市場が現実になる。単一の全世界に行きわたる自由市場のことだ。
・この哲学に動かされている多国間機関は、世界中の経済活動に自由市場を押し付けようとしてきた。それを追い求めることは、すでに大規模な社会的混乱と経済的、政治的不安定を生じさせている。
・アメリカでは、他のどの国よりも家族が弱体化しており、社会秩序は大量の人間を刑務所に収容する政策によって保たれている。
・自由市場は、アメリカの国民の多数が与ることのない長期的な経済ブームを発生させた。不平等が拡大している。
・文化帝国主義という点において、共産主義とグローバリズムは共通の性格を持っている。理性と効率への信仰、文化的多様性の否定、拡大主義(囲い込み)。
・グローバリズムはユートピである。(=幻想的理想社会)
*グローバリズムは誰もが信じることができないのに、そこへ進んでいく「大きな物語」だ。人々の夢を破壊することによって現実化する世界。
*大政翼賛2.0の目指す理想社会は、中央権力が世襲化した共産中国だ。人々の基本的人権を認めず、公益性を上位におく、自民改憲論の目指すところは共産中国だ。国防軍を創出し、事あれば戦争で決着をつける。民族意識を煽り隣国への嫌悪感を醸成する。経済的自由主義プラス強力な中央政府。

・グローバル経済には、世界の多様な社会と不均等な発展から起きる社会的緊張を和らげるものが存在していない。資本と生産の急速な移動、カジノ化した通貨投機

□ヴィクトリア朝初期の自由市場の創造
・レッセフェール・自由貿易・工業化が同時に起こった英国は特異な存在である。
・レッセフェールは大規模な国家干渉によって行われた。19世紀のイギリスの自由市場の前提条件は、共有地を私有財産に転換するために国家権力を用いることだった。(*囲い込み。大地主への移行)
・囲い込みの手順を最終的に支配していたのは議会だった。公式には、地主が議会の法令によって囲い込みを行った手続きは公然たるものでかつ民主的ということになっていた。囲い込みは、イギリスの田舎を見分けがつかないほどに変貌させてしまった。
・束縛のない市場は民主的な政府とは両立できない。

**安倍自民党的な「自由と民主主義の目指すもの」:①自由主義的にに弱者や生活福祉を切り捨てる。②自由主義的に社会の共有財産を、私的大企業に売り渡す。③民主的に基本的人権を葬り去る。④民主的に大政翼賛体制=独裁制を作り出す。*

□穀物法の廃止(1846)と救貧法の改正(1830)
・穀物法の廃止は自由貿易主義者の勝利であった。
・救貧法は、救済の受給に極めて厳しく屈辱的な条件をつけることによって、受給者に恥の気持ちを持たせた。個人は自らの福祉について全面的に自分に責任があり、コミュニティーは責任を共有しないことになった。救貧法の規定する受給条件は、市場が決定するいかなる最低賃金を上回ってはならないし、夫、妻、子供を強制的に別れ別れにした。困窮状況から抜け出すことを不可能とし、困窮者を固定化した。救貧法の支給条件は、市場の最低賃金の引き下げに貢献した。

*失業率を高止まりさせることとの合わせ技があれば、労働条件と賃金の切り下げは容易に達成できる。
*自由市場社会は、自由主義的なイデオロギーに支えられた、市場による選択を社会の原理的基準だとする社会の特異な一形態にすぎない。自由主義社会は、
社会のあらゆる領域を市場領域の中に取り込もうとする。

・カール・ポランニーによれば、市場社会が出現したのはシステマチックな政治的介入という人為的なものを通じてである。
・多くのヨーロッパのどの国とも違って、固定した農村生活は普遍的ではなく、イギリスにはほとんど見られなかった。家族生活も近代以前の大家族よりも今の核家族に近かった。(*歴史的な発展段階というよりも、アングロサクソン固有の家族形態かもしれない。②都市化された文化的多様性の文化だ。)

・一回目は十九世紀のイギリスのパラダイムの中であり、二回目は今世紀の80年代、イギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドにおけるネオリベラル政策の結果としてである。
・これらアングロサクソン系国家は、農村個人主義の文化と経済が工業化に先立って存在した社会だった。

・グローバルな自由市場を構築しようとする企てにおいて、市場のゲームのルールは民主的な討議と政治的な修正から遮断されなければならない。民主主義と自由市場は互いに敵対するのであって、味方ではない。
・資本主義が自由市場を意味するものであるならば、「民主的な資本主義」という言葉は矛盾に満ちている。

□十九世紀に市場経済を作り出すのに必要とされた立法についてのポランニーの説明
>>何者も市場の形成を妨げることは許されない。物の販売以外の方法で所得が得られることも許されない。価格ーー財であれ労働であれ土地であれ、あるいは貨幣であれーーが市場の状況変化に適応する事にも干渉があってはならない。したがって、産業のすべての要素に市場がなければならないだけでなく、これらの市場の行動に影響を及ぼすような手段や政策は容認されてはならない。価格も供給も需要も規制されてはならない。市場を経済活動の分野で唯一の統合力にする状況を作り出すことによって市場の自律力を確保するような政策や手段だけが必要なのである。>>

□□2.国家が構築した自由市場
□サッチャリズム
・パートタイム労働と契約労働が激増した。多くの低水準技能労働者の賃金水準は家族を養う最低限を下回り、妻=家族を低賃金パート労働者として働かせざるを得ない状況が出現した。
・同時に福祉受給資格は一律に制限され、失業保険受給者を(惨めな)福祉受給におちいる前に、たとえ低賃金であろうと非正規であろうと、職に就くように追いつめた。
・家族のうち一人も仕事のない所帯が'75年の6.5%から'94年の19.4%へと増大した。
・治安の悪化 '70年重大犯罪件数160万件▷'92年560万件。
・格差の拡大 '77年から'90年にかけてどの国よりも早く不平等が拡大した。

*ネオリベラリズムにとって国民国家とはなになのだろうか。国家像とは何なのだろうか。保守主義的な心情において、文化的伝統は尊重されるべきものとされ、民族国家としても社会秩序維持のためにも国家は重要視されるが、新自由主義的な経済政策において、政府はできる限り小さく不干渉なものであり、グローバリズムにおいて経済だけでなく文化も社会も国際的に開かれていることが理想である。とすると、国家像において、ネオリベラリズムは引き裂かれている。

*グローバル化は国民文化の分裂・解消を促進する。(もちろん経済のグローバライゼーションだけでなく、技術の進展がグローバライゼーションを加速している。

□ニュージーランド
・ニュージーランドのネオリベラリズムは、かつてこの国に存在したことのなかった下層階級を生んだ。世界でもっとも社会民主的だった国がネオリベラリズム国家となった。
・ニュージーランドの構造改革は、政治の内部から起こったのではない。公務員の間から=財務省によって生み出された。
・この政策は'84-'90は労働党政権において、それ以後は国民党政権によって実施された。
・全国的な団体交渉制度は、民間部門のみならず公共部門においても市場決定的で個人主義的な労働市場が作り出された。物価安定だけを唯一の目標とする独立した中央銀行が創設された。
・国家は雇用水準へのいかなる責任からも自由になった。マクロ経済政策は国家の手からはずされた。
・公立病院は私企業に転換され、医療サービスは民間との競争にさらされた。学校は教育サービス料金を徴収するようになった。国のサービスのほとんどは、私企業に売り渡され、福祉機能は縮減された。警察、裁判所、刑務所のための予算は伸び続けた。
・完全雇用状態が終わり、失業者が増加したことと同時に福祉給付が後退した。必要とされるときに、必要とされるものが姿を消したのである。
*日本における生活保護の切り捨ては現在の受給者への攻撃を表向きの理由にして、近い未来に増大する困窮者を標的にしている。必要なときに、必要なものが社会から消え去るように、準備されているのだ。
・福祉制度が勤労意欲を失わせた結果、貧困層が生じるのだというのが、新自由主義者の主張である。福祉国家は勤労者にモラルハザードをもたらすという法則が信じられている。
**バブルに至る日本のサラリーマンは、毎日残業にあけくれ有休さえもろくに取らないほど働き蜂だといわれた。十分に福祉国家であったし福祉充実を目標としていた。彼らのことをモラルハザードに見舞われた勤労意欲のない労働者だとでも言うのだろうか。
 現在の労働者は長く厳しい就活を強いられ、労働法の改悪によって労働市場はかつてより、より競争的だ。ところで、勤労意欲は向上したのだろうか?
 モラルハザードは、救済が必要な貧困層の切り捨てに走るものたちにこそ起きていると云わざるを得ない。

*おそらくこのニュージーランドの政策は、シカゴ学派のミルトンフリードマンの学校から生まれたものだ。この推測はほとんど確実なものだと思う。
またこのプロセスが社会民主主義的な政党=労働党政権によって行われたことは示唆的である。改革を訴える新自由主義者は社会民主的な政党とも親和的なのだ。すなわち日本民主党のうちに、巣くうことなど容易いことなのだ。

民主的な責任=アカウンタビリティー

・何よりも決定的だったのは、ニュージーランド経済を規制なき資本の流れに開放するという改革の結果、国際資本に公共政策に対する実質的な拒否権を与えたことである。公共政策が競争力、利益、経済的安定性に影響をもたらすと国際資本に認識されたら、どんな場合にも資本の逃避という脅しによってその政策は撤回されかねない。ネオリベラル改革は後戻り不可能なものとして認識された。
・社会民主的な目標は、解消・放棄あるいは逆転されたが、それらは民主主義的な選択のもとにおこなわれたのだ。
・すべての政党がばらばらになって溶解した。保守の国民党は国家主義政党と連立することによって政権を維持する道を選んだ。
*日本でも政党がバラバラに分裂し、民主党は溶解した。総選挙において阿倍自民党が圧倒的な議席を獲得したが、得票を詳細に分析するまでもなく、投票結果は政治はまとまりを持たなくなったことを示している。安定政権をもたらすことはない。

□メキシコ
・メキシコは新自由主義者のショウウィンドウだった。NAFTAの加盟国であり貿易相手として生産センターとしてアメリカにとって大きな位置を占める。カナダより下で日本より上。
・メキシコにおいてネオリベラリズムは、経済的にも何ら成果を得られなかった。

□□3.グローバリゼーションの虚実
・グローバリゼーションは類のない状況でも、線形の課程でも、社会変化の最終点でもない。
・EU諸国は互いの文化のどんな側面よりもハリウッド映画から吸収するイメージの方をより多く共有している。東アジアでも同じである。

*このことは奇妙なことではないか。日本人は隣国である韓国や中国よりも、太平洋で隔てられたアメリカのイメージをよほど多く共有している。アメリカから日本への像はどうであるかは分からないが…

・国内価格は、ローカルな要因で決まるよりもむしろ、グローバルな要因でグローバル市場の変動に影響されて決まる。

**限定性・希少性が「市場」の根拠。希少資源をいかに合理的・効率的に配分し経済活動に供するか…が、(市場)経済学のテーマである。資源が限定的・希少である都いうのは、ある種の思い込みではないのか。エネルギーであれば、自然エネルギーに限ってもシェールガスが採掘可能になっているしその他の代替エネルギーも立ち上がってきている。鉄はプラスティックに代替されてきている。長らく貨幣価値の基準となった金は、間違いなく思い込みの産物だ。これらのことは根底から疑って見たい。

・*著者はグローバリズムの世界でも、その経済形態はグローバルに単一化されるというよりは様々な変種を生むと考えている。特に中国は文化的伝統の長さからも、アメリカ型の経済形態とは違ったものとして存在可能だという。
>>華僑が形成したファミリー・ビジネスモデルは、本格的な別種のモデルであり…フィリピンでは華僑はわずか人工の1%を占めるにすぎないが、株式市場の半分以上を握っている。インドネシアでは4%に対し75%、マレーシアでは32%に対し60%である。1996年時点で5100万人の華僑は7千億ドル相当の経済を支配しており…▷中国華僑はグローバル経済が始まるより前から国民国家に縛られないグローバルな存在である。

□1900年前後のグローバリゼーション
・当時のグローバル市場の技術的基盤は、大陸間海底電信ケーブルと蒸気船だった。それ以降世界の港は互いに結ばれ、多くの商品について世界価格が存在するようになった。
□多国籍企業
・多国籍企業の成長と力は巨大であり…多国籍企業は世界生産の三分の一を占め世界貿易の三分の二を占める。'93年の多国籍企業の生産はアメリカ合衆国全体の生産にほぼ匹敵する。
・今日の多国籍企業は生産過程をバラバラの部分に分け、世界中の様々な国に配置することができる。国内状況に依存する必要はかつてなく低くなっている。労働市場・税・規制・インフラストラクチャについて自由に選べる。直接的には投資と撤退の選択による脅しによって、間接的には(金と人と情報のネットワークを背景にする)政治力によって、多国籍企業は国民国家の政策を左右する力を持っている。

**
*'90年代は多国籍企業が経済の主役であったが、今や金融が経済の主役である。多国籍企業=生産複合体から金融資本は権力関係を逆転させた。いや正確には、主役としての姿を隠さなくなったと言うべきかもしれない。
*生産複合体としての多国籍企業がグローバル市場の主役であるとすれば、ローカルな多様性に縛られる、あるいは積極的に評価すれば、アンカーをおろし独自の色に染められることもあるだろう。しかし金融資本は、情報・金融工学の進展によってバーチャル空間にその活動領域を移したこともあって、その基本的な性格=抽象性にさらに磨きをかけた。単一の普遍性を持った=モノクロームなグローバリズムの世界を実現したのだ。金融バーチャル世界において国民国家が再び国境の壁を築けるかどうかは、金融取引税が実行性を持つかどうかに見ることができるだろう。

**グローバル市場経済におけるリスク(確率的に把握可能とは云うものの)と不確定性は、なぜこれほど深刻なのか。市場の自律性に任せればいいなどと云う言い草は戯言(たわごと)だということは明白だ。

・アメリカの企業でさえも、グローバルな性格を持つと云うよりもアメリカ的文化・価値観・組織形態の固有性をもっている。(と著者は云うけれど…)

*TPPの日本加入については、米国内の政治的反対はきっと大きい。NAFTAというアメリカと名が付いた隣接地域との経済協定でさえ、アメリカ国内では政治的反対が強かった。産業先進国である日本とのTPPは、経済規模が小さくまた植民地としての性格がより強い韓国とのFTAとは違う。

・*企業内でも仕事はパッケージとしてバラされ外部化(外注)されるとともに、残された内部の業務の多くは非正規化・パートタイマー化されている。正規従業員の中核社員はごく一部分で済ますことができるのだ。ダウンサイジングはもちろん中間管理者に及んでいる。企業が負担してきた社会福祉コストは年金積み立てが個人のものに移し替えられるなど、コストの切り詰めが行われている。

・多国籍企業が生き残ることができるのは、新しい技術を使ってライバルに対して競争上優位に立つことのみによってである。
(*という風には思わない。知的所有権や資力を使った同類企業や消費市場の囲い込みによって、独占力を構築したものが長らえ、利益を享受することができる。そのような仕組みを作れるのは、ユダヤ人(ユダヤ的知識技術とユダヤネットワークを持ったもの)のみだ。)
・多国籍企業がライバルに対して決定的な優位を獲得できる源泉は、新しい技術を創造し、それを有効に使う能力である。企業がどのように知識を蓄え生み出すかにかかっている。新しい知識を獲得し活用できない企業、従業員の間にある暗黙の知識の蓄積を無駄にし、従業員が新しい知識を身につける意欲を起こさせないような企業はすぐに衰退するだろう。

□□4.新しいグレシャムの法則 グローバル自由市場はどのように最悪の資本主義に行き着くのか

・ソ連崩壊の後、中央計画経済と資本主義におの競争は、様々な異なった種類の資本主義ーーアメリカ、ドイツ、日本、ロシア、中国ーーの間の競争に取って代わられた。(*当たってる?)

・*社会的共有資本や環境維持・社会福祉コストを負担することから免れている多国籍企業は、競争条件において有利である。税負担もそのように考えられ、負担回避策が政治的・会計的に行われる。国民経済(経世済民)からみての良貨は、悪貨に勝てない。

・社会民主主義とグローバル資本
*グローバル資本は為替管理権を国民国家政府から奪い取ることによって、①為替取引をカジノ化する事。②各国政府財政政策・中央銀行通貨政策への攻撃の武器とすること…が可能となった。国民国家の財政政策・通貨政策をコントロールする事が可能となった。
*為替取引は『国際通貨市場』と名を変えた。

*社会民主主義政策とは、端的に言えば国民に対して文化的生活を営むための福祉を提供する政策である。国民とは、改めて云う必要があるが、国境に囲まれた地域に住まう住民のことである。グローバル資本は国境を越えて自由に移動できる存在であり、国民とは、存在の根拠と有り様において、ちがう。グローバル資本は経済活動で得た利益に対して、国境を越えて移し替えることができ、あるいは経済活動に対して税や規制などの負担の少ない地域へ資本を移動させることができる。いまや企業にとって負担回避行動こそが合理的行動なのだ。倫理の介入する余地はない。短期的利益追究の行き着いた先である。社員に酬いることや地域への貢献は省みられることはない。20世紀の日本企業とは、もう違うのだ。それらは、できるだけ回避すべきコスト負担だと認識するに至った。企業・資本家と従業員が敵対的に対峙するマルクスの時代に時計は巻き戻された。

(社会民主主義政策が考慮の対象となるのは、さすがに著者が欧州に近いところ(英国)にいるおかげだ。アメリカ人著者とは違う視点だ)

*グローバル企業が自由に振る舞うことによって、経済活動が効率的になることさえ絵空事だ。神の見えざる手ではなく、悪魔の見えざる手が動き出しているのだ。経済功利性+短期利益追及の行動基準がグローバルに行き渡ることによって、また、国民経済の隅々に浸透するによって、国民の経済・雇用と生活(教育・環境・治安・文化的生活)が脅かされ破壊されつつある。

*グローバル金融資本の力は強大となり、メキシコや東南アジア諸国という経済的に脆弱で規模の小さい国ではなく、G7大国であるイタリアやスペインに対して緊縮財政政策を押しつけるまでになった。怪しげな民間格付け機関のレーティング操作によって、一国の政府債務の利率が跳ね上がる。金融機関の信用収縮が国際的な広がりをもっておこる。支配し利益を享受し、負担を押しつけ、同時に制御できないリスクを拡散強化する。


□グローバル自由市場vsヨーロッパ社会市場
『社会市場経済』:自由市場経済に対する言葉
・ドイツ 企業統治にステークホルダーを参加させるーー従業員・地域社会・銀行
株式会社よりは有限会社が主要であった。銀行による間接金融が大きな位置を占めていた。

*株式市場と為替市場の開放・自由化こそが新自由主義経済=市場原理主義のグローバル化の要石である。その空間が、金融資本が侵入し膨らませ、他の経済活動を随伴・服従させることができるコマンディングハイツであり、(ユダヤ)金融資本家が他の金融資本家に比べても、もっとも得意で自由に動き回ることができる場所である。

・ドイツモデルという独自の経済形態は、将来にわたって形を変えて、活かしていけると著者は云う。
・外国への進出による外国人雇用者の増大が、ドイツ国内の労働者の地位へ影響を与えている。

□□5.アメリカとグローバル資本主義のユートピア
アメリカの国民的な信念である教条的な楽観主義は、アメリカ社会のあらゆる公的なレベルにあふれている。

・グローバルなレッセフェールはアメリカの企てである。
・民主主義体制の資本主義国家が唯一の正当な国家形態であると主張する原理主義的なネオ保守主義者(ネオコン)は、伝統的な外交の実践を拒む。敵対的な関係を抑制し、緩和させることを目指す外交を受け入れないのである。(啓蒙思想的な原理主義者だと、著者は云う)
(啓蒙思想のことを「モダン」ととらえている。ポストモダンな世界に適合しないと著者は云う。)

□アメリカにおけるネオコンサーバティブの台頭
・アメリカの大衆文化においてリベラリズムは非合法化され、政治的においてマイナスなものとされた。リベラリズムは追いつめられた少数派である。
・アメリカの神話では、憲法制定が時間を超えた普遍的な価値を持つ原則を体現しているとされている。この神話によれば、アメリカは歴史的な時間の中で生まれ、変遷し、いつか消滅する、そういう歴史的な存在ではなく、普遍性をもって永続する存在であるらしい。
・自由と民主主義と自由市場制度は、アメリカ的価値観と一体不離であり、普遍的真理を体現するものであるがゆえに、全世界に行き渡らねばならないーーとアメリカは信じている。
しかし、もっとも成功した新興国で自由市場原理主義を採用する国はないであろう、と著者は云う。
・原理主義は、保守への回帰ではない、反革命なのだ。
・新自由主義はアメリカ社会に経済的不平等をもたらし、1%vs99%の富の極端な偏在をもたらした。1%の人々は、アメリカの内側に自らをアメリカから隔離するために城塞都市を作りだし、そのなかに身を隠そうとしている。

□アメリカの不安 階級対立の再出現
*個人所得が向上した人にとってもリスクが目に見えて増大した。大半のアメリカ人にとって、人生半ばにそこから立ち直れないかもしれない経済的混乱が、近い将来起るだろうと考えるのが普通のことになった。終身雇用から見放された人がほとんどだし、将来所得が増えるどころか減ることに怯えなくてはならない。これらは人々から恒常心を奪い、将来への希望を失わせる。
・*アメリカはもはや(分厚い中間層が存在する豊かで安定した)市民社会ではない。経済的に不安定な多数派と、富を独占的に集積しつつも、市民的責任や負担から免れることに長けたごく一部の上流階級に分裂した社会になった。
・アメリカの労働者の週当たり平均賃金は、'73年から'95年にかけて物価変動を考慮した指数で18%低下し、$315▷$258になった。一方富裕層上位1%の資産は'83年31%▷'89年36%

□アメリカの治安状況
・'94年 殺人被害者10万人につき 米国 9.3 欧州1.6 日本1.0
  強姦 米国 42.8 日本1.5
窃盗 米国255.8 日本1.75

・子供の殺害のうち世界の四分の三は米国で起きている。

□アメリカの宗教心
・アメリカでは熱烈で原理主義的な宗教心がいまだ根強い。
・多くのアメリカ人は宗教的な信心や習わしを保持し続けている。アメリカ人の70%の人が悪魔を信じている。アメリカの世俗的伝統はトルコのそれより弱い。近代化が世俗化と併せて進行するという図式はアメリカには適用できない。(おそらくイスラム社会でも)

□□6.共産主義崩壊後のロシアのアナーキー資本主義
アナーキーと云うより、無秩序だろう。

□□7.西欧の黄昏とアジア型資本主義の勃興
・リークワンユー
 アメリカにとって、自堕落で弱く腐敗し無能だと、長い間さげすまれてきたアジア人によって、世界とまではいかないまでも西太平洋から排除されることは、感情的に受け入れがたい。アメリカの文化的優越性意識がこのような調整を受け入れることを困難にしているのだ。アメリカ人は自分たちの理想ーー個人と自由で束縛のない表現が何より大切だということーーが普遍的だと信じている。しかし彼らの理想は普遍的でないし、かつてもそうでなかった。

□日本
・ワシントンコンセンサスの要求は、日本に日本であることをやめよと要求しているに等しい。
・戦後日本の中核的特徴ーー完全雇用の追究=国民の大部分に職を保証する書かれざる社会契約の存続ーーがグローバル自由主義によって脅威にさらされている。
・この制度は、労使関係と社会の平和を維持する戦略として第二次大戦後に導入された。また、下層階級の出現を防止してきた。日本はほぼすべての人が中産階級である平等社会なのである。
・もし日本の政策決定者がワシントン・コンセンサスの要求に屈するなら、日本は大量失業、社会的まとまりの崩壊という解決が極めて困難な問題を抱えることになり、西欧社会と同質なものとなるだろう。
**ここのところは、十分に検討する必要がある。分かれ道は存在したかもしれない。

・アジア的自由、というよりも融通無碍さが教条主義的な対立を回避している。資本主義発展にはいくつもの道があるという考え方。

□□8.レッセフェール時代の終焉
・(規制を排除した)自由市場では、ルールさえ明確にさせれば市場参加者が形成する未来への期待の集合は合理性を内包している…と新自由主義者は主張する。《合理的期待形成》
・だが、実際の自由市場は、ジョージ・ソロスの云う「反射的相互作用」が支配している。
*市場は、特に自由市場は、行き過ぎる能力は持っている。自律的・合理的に歪みを調整する機能や、能力を持っていると証明されたことはない。

・景気循環は時代遅れのものになったという盲信は、アラン・グリーンスパンによってお墨付きを与えられた。
・グローバルな自由放任主義は、世界の株式市場と金融機関に制御不可能な危機が発生して崩壊するのかもしれない。金融デリバティブという巨大で全貌を知ることができないバーチャル経済が制度的崩壊の危機を増大させる。

ー 以上

2012-11-28

『経済学の犯罪』

「経済学の犯罪」 −希少性の経済から過剰性の経済へ−
佐伯啓思
2012.8
読了:2012.11.19
1949年生まれ

第一章 失われた20年ー構造改革はなぜ失敗したのか

□2011年12月竹中平蔵はこういう
 「自由貿易が国民全体に大きな利益をもたらすことは、アダム・スミスの「国富論」以来、世界が経験してきた共有の理解だ。日本自身はこれまで、自由貿易で最も大きな利益を得てきた国の一つと言える」これは竹中氏に限った見解ではない。いわゆるグローバリスト、市場主義者、つまりグローバル資本主義の擁護者の典型的な見方なのである。

・私にはこの短いセンテンスの中に五つの間違いがあるように思われる。
⑴アダム・スミスは決して単純に「自由貿易が国民全体の利益になる」などとは言っていない。
⑵「自由貿易が国民全体の利益になる」という命題が現代ではそのままでは成り立たない。成立するためには、一定の条件が必要であり、現代経済ではその条件は成り立っていない。
⑶自由貿易の教義は、世界共有の理解ではない。
⑷「日本が、自由貿易で最も大きな利益を得てきた」というのもそのままでは正しくない。構造改革を主張した人々は、日本経済が閉鎖的で官僚主導的で自由競争的でない、と論じてきた。自由競争をしないで日本は高度成長をしてきたことになる。自由主義経済社会であったことと、自由競争至上主義あるいは市場原理主義であることとは同じではない。
⑸「だから、TPP」という論には、飛躍があり過ぎる。TPPは自由貿易主義というよりは、ブロック経済を目指す側面が強い。また、「TPPが、国民全体の利益になる」のかどうか、さっぱり論じられていない。

・新自由主義や市場原理主義が正しい、ということを自明とする、ある種の思い込みに囚われているのではないか。色眼鏡が掛かっているのに、メガネが掛かっていることさえ、意識にのぼらせていないのではないか。

□日本の緊急問題はデフレと雇用不安。
・ある種の立場に立てば、財政問題こそが喫緊の問題だという。財政赤字を放置すれば、ギリシャ化すると声をあげる人たちだ。
・日本の赤字をファイナンスする国債は、国内で消費されており、累積財政赤字が円の価値を直接的に暴落させるわけではない。つまり為替リスクを免れている。また、国内金融機関には財政当局や日銀のグリップが効く。つまり国債価格の暴落、金利暴騰のリスクを免れている。
・デフレと雇用不安は、国内消費のスパイラル的な縮減を招くリスクが大きい。

**経済のグローバル化は、ロボットの出現より激しく、労働者賃金の下落をもたらした。24時間文句も言わずに働き続けられるロボットが職場を奪うより、後進国の低賃金労働者の方が、先進国の労働者には脅威だったのだ。
 グローバル経済を導きそこから利益を享受することができる力のあるもの達が、西側経済とりわけ米国の豊かさの象徴でもあったミドルクラスを解体没落させると同時に、先進国労働者を、ロボットという機械より惨めな後進国労働者との(低賃金)競争の中に投げ込み、中間層以下の所得低下をもたらした。*
・賃金の低下と、失業の増加は、国内消費の縮減効果をもたらした。

□日本の構造改革は、長期停滞の原因だ
・ロナルド・レーガンとマーガレット・サッチャーの新自由主義的改革は一定の成果を勝ち取った。当時、両国経済ともにインフレが亢進し、生産組織が弱体化していた。また、金融部門に彼らの強みを持っていた。(ロンドン・シティー/ウォール街)日本が構造改革を行った’90年代〜’00年代の日本の経済構造とは違っていた。*いわば違った症状に、同じ処方をしたことに似ている。*
・構造改革論者は’90年代の経済停滞について、既得権益に守られた非効率的な分野が残されており、生産性が低いことが問題点だと訴えた。
**ついでに、製造業がいまだ世界的な競争力を持っていた時に、ホワイトカラーの生産性の低さと(*東側世界の解体後、日本製造業をアメリカの第一の脅威と位置付ける米国の戦略的な円高誘導の結果であるにも関わらず)労働者の高賃金を言いつのった。労働費を変動費化する為に非正規雇用を合法化して、低賃金労働者と失業者を作り出した。労働市場に自由な競争を持ち込むためである。誰のための自由な競争なのか??
・非効率な分野から資金や人材を引き上げて、経済資源の適性配分は起こったのか?答えは明白にNo!だ。資金は米国へと流され、新規参入者(学卒者・若者)を中心に人々は非正規・派遣労働者となり、低賃金にあえぎ、あるいは失業した。大企業は内部留保金の増大に見られるように富を独占した。


・供給力はずっと過大なままに放置された。
・生産能力があるにも関わらず、消費されないことで労働生産性の数値は低下した。供給力に見合う有効な需要がないために、消費されないのだ。

□「社会的土台」を市場原理主義が破壊する

・利潤基準/効率性基準を全ての分野に適用する。
・社会的資本 教育・医療・土地・水・地域ネットワーク・交通機関
・社会は単純均一な商品で成り立っているわけではない。

++ 宇沢弘文 『社会的共通資本』
 「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。
 社会的共通資本は
⑴自然環境 ⑵社会的インフラストラクチャー ⑶制度資本の三つの大きな範疇に分けて考えることができる。
 大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー。そして教育、医療、司法、金融制度などの精度資本が社会的共通資本の重要な構成要素である。都市や農村も、さまざまな社会的共通資本からつくられているということもできる」
++


第二章 グローバル資本主義の危機ーリーマンショックからEU経済危機へ
□EU崩壊の危険性
・金融機関のバランスシートの悪化からも実体経済が悪化するというのはリーマンショックと同じ構造である。サブプライムローン問題からリーマンショックへは、株や土地などの資産バブルの崩壊による回収不能な不良債権が累積されることが発端であった。だが今回は、問題の発端になったのはギリシャの財政赤字=財務危機なのだ。そこで重要になったのはまたしてもヘッジファンドなのであり、金融商品=CDSである。
・経済的にはEUは、通貨統合、市場統合を含めた徹底した地域限定の経済的グローバリゼーションであった。ところが政治的には統合されていない。国家が主権を保持しているのだ。
・今日、世界100ヶ国の金融資産は200兆ドルに対しGDPの合計は約62兆ドル。実体経済に対して3倍の規模となっている。
・世界経済の安定性の鍵は、ヘッジファンドに握られているのである。
・トリレンマ 景気回復と財政均衡、金融の間には相互矛盾=トリレンマが発生している。(ソブリンリスク:政府あるいは政府金融機関に対する融資の回収不能リスク)
・*自由主義者は国家を、個人/民間経済の領域に干渉し自由を犯すものとして、また、民間/市場経済に委ねるべき経済領域を公共領域と称して政府に巣食う既得権益者に開放し保護する者として、つまり個人の自由にとって、(国家を)敵対者とみなしている。

**自由主義者は、経済領域において国家権力の介入を拒否しようとする、ある意味、アナーキスト=無政府主義者なのだ。ところが、矛盾したことにグローバルに自由主義経済を他国に浸透・展開させるためには国際的政治・軍事パワーの後押しを必要とする。リーマンショックに見られるように、国家規模での経済危機が表面化した時にはラストリゾートしての国家救済を必要とし、それを押し付けられるのは(充分に強い)国家権力なのだ。
 EUソブリンリスクがギリシャからスペイン・イタリアに広がった時、EUに要求されたのはソブリンリスク回避のために取るべき財政・金融政策の迅速な政治的決定であった。


 グローバル経済を支える存在として、佐伯氏は、民主主義体制からは遠い共産主義体制の中国の役割に言及している。

□国家と市場 国家が市場に従属する
・今日、国家は市場の外部に立っているわけではない。国家と経済が分離されているわけではない。国家は財政や為替レートを通じて市場に引きずり込まれ、市場の奴隷になりつつある。

**国家が市場に従属するという時、市場とは金融市場のことであり、国家とは国家財政=国債レーティングのことである。現代の権力の源泉の第一は、軍事力でも政治力でもなく、もちろん民主主義を支える個人の力でもなく、金融資本を握るものにある。
 実体経済を振り回す力をつけるために、金融資本のシステムがあると言えるのではないか。金融資本とは、バーチャルな世界でもある。グローバル経済においても、また、国家の枠においても、債務を膨らませること、金融取引を膨らませること、信用という仮想の貨幣を膨らませることが、世界を支配するパワーとして、同時に世界の富を収奪するツールとしての金融資本の能力を高める。


第三章 変容する資本主義ーリスクを管理できない金融経済
□リスクと不確実性
・不確実性をある程度確率的に把握できる場合にそれをリスクと呼ぶ。確率的に把握できない事象を不確実性と呼ぶ。経済学者は、不確定性を管理するとは、まずそれをリスクに置き換え、さらにリスクを分散することだとみなす。
・CDS Credit Default Swap
・2008年 ベア・スターンズ/リーマン・ブラザーズ ゴールドマン・サックス/モルガン・スタンレー破綻寸前 

□ブラック・スワン
・確率的に予想できないブラック・スワンが突然変異的に出現する。予想できないゆえに、現れた時には、管理できない破壊的な力を発揮する。
・グローバルインバランス グローバル経済における国家間の生産と消費のインバランス、換言すれば供給と需要のインバランス。米国と中国
・グローバルインバランスの進展は、グローバリゼーションと金融中心主義(*金融経済化)によってもたらされ、世界経済の不確実性・不安定性を招いている。
・この20年間のグローバリゼーション進展における勝者(=米国、中国、露、印、伯)は、国家が強力なのである。政治的指導者や支配層に集中された権力と行政力が強力なのである。

□産業型成長モデル
・工業分野や消費財分野での技術革新が生じ、それが大量生産と共に製品コストの低減をもたらす。同時に生産性の向上と共に賃金水準が上昇する。所得が増加して大量消費が可能となる。
 技術革新→大量生産→所得上昇→大量生産…という循環プロセスが経済を拡張させた。
□金融経済型成長モデル
・金融工学やITによってアメリカの金融市場で高い収益期待を生み出す。それはグローバルな金融市場で圧倒的に優位に立つことを意味する。海外からの資本をアメリカの金融市場に集中し、一層の収益を生み出す。そこから発生した収益を消費に回すことによって経済を活性化する。(*収益を消費に回すというのは、トリクルダウン説だ。それは起きなかった。消費に回されたのは、海外から還流させた資金と不動産市場・金融市場において生じたバブルだ)

・経済の成熟化によって既存の産業は活力を失う。同時にグローバル経済において、低賃金の新興国に対して競争力を失う。

□金融経済とバブル
**金融経済が必然的にバブルを発生させるメカニズムを解明しなければならない*
・(その理論的背景は置いておく)とにかく金融経済化は、投資対象(土地、株式、金融商品)のインフレーション=バブル景気をもたらし、行き過ぎたところでバブルを弾けさせた。
・バブルが崩壊すると金融部門の不全症状/信用収縮を引き起こし、実体経済に打撃を与え、経済全体の悪化をもたらす。グローバル経済下においては世界同時的に危機は進行する。

・金融経済型成長モデルが破綻したからと言って、産業型成長モデルに戻れるわけでもない。先進国においては無理やり成長を追求できる時代は終わった。(*と佐伯はいう)
□新自由主義経済学あるいは「新古典派経済学」
・今日われわれは独特の経済についての思考を持っている。新自由主義的な傾向をもった市場中心の経済学がそれである。
□「市場経済の基本命題」:
「自由な競争的市場こそは効率的な資源配分を実現し、可能な限りの人々の物的幸福を増大することができる」
三つの前提
⑴人々は与えられた条件のもとでできるだけ合理的に行動する。行動に必要な情報はできるだけ合理的に利用する。
⑵経済活動の目的は人々の物的満足をできるだけ増大させることであり、この場合に、モノ・サービスの生産・交換・消費という実体経済が経済の本質である。貨幣はその補助的手段にすぎない。
⑶人々の欲望は無限であり、消費意欲は無限である。これに対して物的生産の条件となる資源は有限である。従って、経済の問題とは、希少資源をできるだけ効率的に配分するという点に求められる。

□三つの前提は、間違っている
⑴人々は常に不確定な状況の中で将来へ向けて行動している。従って、本質的な意味での合理的な行動というのは定義できない。
⑵「貨幣」は人間の経済活動の補助的な手段ではない。それは人の生活を支える独自の価値を持ったものであり、時に貨幣そのものが人の欲望を掻き立てる。
⑶人間の欲望は社会の中で他者との関係において作られる。それはあらかじめ無限なのではない。一方、今日の経済は、技術革新のおかげで巨大な生産力を持っている。もしも人間の欲望が生産力の増加に追いつかなければ、経済の問題とは、希少性の解決へ向けた問題ではなく、「過剰生の処理」へ向けた問題となる。
 ・私はこの三つの前提から出発したい。経済学の主要な伝統は実はこの前提を持っていたのである。

第四章「経済学」の犯罪ーグローバル危機をもたらした市場中心主義
’70年代 経済学派
米国 新古典派 ①アメリカケインジアン ②シカゴ学派
英国 ケンブリッジ学派
  カール・ポランニー:市場経済は特異な歴史的産物

 ケインズの流れを汲むものは政府の賢明さを強調し、制度学派は慣習的な制度の重要性を説き、ラジカル派やイギリス経済学は階級関係を強調したのだ。

・’*80年代にシカゴ学派が勝利した米国経済学は世界から若手経済学者を吸収し、シカゴ学派に染めて世界へ送り返した。
・このことがいかにアメリカの経済的な覇権と絡んでいたかは決して強調しすぎることはない。
・私が経済学を研究していた頃の’70年代と比べると今日のその様変わりに驚かされる。多様な流派はほとんど姿を消し、もっぱらシカゴ学派流の市場中心主義だけが残ったのである。
・経済学は常に隠されたイデオロギーを含み持っている。中立的・客観的な経済学というものは存在しない。一定の角度からの現実の見方が内包されている。

**没価値的・中立的に装われたものの、背景と言わず隅々に、社会的にメジャーな価値観が埋め込まれている。当たり前すぎてその価値観がまるで裏側に隠されてしまったように、無意識の領域にしまいこまれている。現実的経済学・現実的政治、現実的社会…それらは価値中立的に見えて強固な価値観で支えられている。フェミニズムが見る男性社会のあり様を見るのと同じことだ。

・マルクス主義は経済学から文学部(フェミニズム)に引っ越した。

・ハイエクとフリードマン:市場秩序と市場原理主義

**新自由主義とマネタリズム。新自由主義と数学。

・需要要因ではなく、供給力が経済全体の総生産量を決める。供給を決定する最終的な要素は資源や労働量であるとする。

□市場主義経済学の命題 完全市場パラダイム
⑴失業は存在しない
⑵政府は景気を刺激することはできない
⑶景気変動は存在しない
⑷バブルは存在しない

第五章 アダム・スミスを再考するーー市場主義の源流にあるもの

・市場価格による需要と供給の均衡 限界需要・限界供給 微分による価格均衡
・ワルラス一般均衡理論
①無時間性②確定性③貨幣の中立性④消費の無限性
・「古典派経済学」アダム・スミス(「国富論」)、デイヴィッド・リカード(比較優位と国際水平分業)

++(Wikipedia)デヴィッド・リカード(David Ricardo、1772年4月19日 - 1823年9月11日)は自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出する事で経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。労働価値説の立場に立った。経済学をモデル化するアプローチを初めてとったことで体系化することに貢献し、古典派経済学の経済学者の中で最も影響力のあった一人であり、経済学のなかではアダム・スミスと並んで評される。彼は実業家としても成功し、多くの財を築いた。ユダヤ人++

・重商主義 富(金・銀の保有)を極大化するためには⑴輸出産業の補助・育成による輸出の増加 ⑵国内産業の保護による輸入の抑制

・重商主義者は一国の富を、あまりに不確定性の高い、不安定な構造の上に置いている。重商主義者は一国の富を、グローバルな商業網とグローバルな金融システムに依拠させようとした。商業を支える財政基盤は、イギリス国債とイングランド銀行券という「信用」に依拠している。信用という不確かなものに依拠している。

・重商主義の時代/グローバル化状況の中で「商業革命」(貿易の世界的ネットワーク)「金融革命」「財政革命」(自国貿易船を防衛するための軍備を整えるための国債の発行)はおこった。

第六章 「国力」をめぐる経済学の争いーー金融グローバリズムをめぐって

・経済における二つの思考(の対立)経済基盤をどこに置くか、商業/金融か農業/工業か。確かなものは何か。土地・労働が富を作り出すのか。

・マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
プロテスタントの倫理観(禁欲的勤勉と労働の組織化/経営)が、富の蓄積と資本主義を生み出した。富の蓄積は、神の意思に反するものではなくなった。
ウェーバーの二つの資本主義の区別 ⑴合理的・近代的市民的資本主義
 ⑵ユダヤ的な「賎民的資本主義」
・ゾンバルトの批判 ユダヤ人こそがプロテスタントに負けず劣らず合理性と抽象性と世俗内的禁欲の精神と勤勉さを発揮している。禁欲的で合理的な精神とグローバルに活躍するユダヤ人ネットワークが近代資本主義の発展の原動力だとゾンバルトはいう。それに加えて、祖国/大地を持たないユダヤ人の特性が、貨幣や金銀財宝という動産に価値優位を見出した。ユダヤ人の勤勉さは「貨幣」を増殖させることに費やされ発揮される。

□ケインズ経済学
・自由放任主義を説いたケインズは、転向する。
・金融グローバリズムは国内経済を不安定にする。海外からの流入資本は、その国の長期的な利益を考慮して投資するのではなく、自己利益の追求の為に投資するのであるから、状況変化によっては一挙に資本を引き上げることもありうる。
・グローバリズムの下では、投資家の私的利益の追求行動が国民全体の公的利益に一致する保証は、ない。神の見えざる手は機能しない。
・論文「国民的自給自足」の中でケインズは述べる。
 現在のような標準化された技術のもとでの大量生産型の工業では、ほとんど似た製品がどこでも作れるようになるだろう。「豊かな社会」である先進国では工業生産はさして重要なものではなくなるだろう。それよりも住宅や生活に関わる多様なサーヴィス、生活のアメニティ、都市の景観といったものこそが重要となるだろう。そしてそれらは国際的商品ではなく、国内の商品なのだ。
 しかもそれらは十分な利潤を生み出すものではない。だからわれわれは、そろそろ金融経済の利潤動機から離れなければならない。
「頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義は決して成功しない。それは知的でなく、美的でもなく、公正でもなく、有徳でもない。」
・金融グローバリズムのもとでの貨幣の投機的な運動、それこそが企業の長期的な投資を減退させるのだ。

<<図表>>

第七章 ケインズ経済学の意味ーー「貨幣の経済学」へ向けて

・経済学には、個々の企業や消費者の合理的な行動分析から始めて、それを合成した市場の働きを論じる「ミクロ理論」と、国民総生産や国民所得や失業の問題、経済成長といった経済全体の集計量を扱う「マクロ理論」がある。
 ケインズ理論の功績は、個々の経済主体の分析や市場分析という「ミクロ理論」とは異なった「マクロ理論」を発見したことにある。例えば労働雇用量(失業率)がどのように決まるかは、労働市場というミクロの問題ではなく、GDPのようなマクロの集計量の問題だというのがケインズの発見だった。


(・合成の誤謬 ミクロ的には合理的でもマクロ的には非効率を生み出す事象。)
・ミクロ理論とマクロ理論がうまく接合しないケインズの経済学の欠点をついて、ケインズ有効需要の考え方は、否定された。
・短期的には一時的な失調が生じるかもしれないが、結局のところは価格変化によって市場経済は自動調整機能を発揮する。…これが新古典派の見解なのである。

・市場理論の出発点は、物々交換にある。物々交換を多数でスムースに行うために「貨幣」が発明される。貨幣を交換の媒体として、交換体系が広がって行く。これは市場の基本構造だ。

□交換価値の媒体としての貨幣から、抜け出て
⑴貨幣は経済活動が時間を通じて継続するために必要となる。
⑵貨幣は将来の不確定性とプラスとマイナスの両面で結びついている。物と交換された貨幣が、貨幣を持たない場合に比べて、将来における交換価値の実現の不確実性を減らす。しかし、交換した時点の交換価値を将来の時点で保証するわけではない。
⑶貨幣は、社会的な信頼に基づいてのみ、貨幣となる。
⑷貨幣はそのもの自体で価値を持たない。価値を持つのは、物である。貨幣は、将来において、貨幣と交換する、物の価値を代理表象する。(価値保蔵機能)

 二者の登場する物々交換モデルでは、貨幣はいらない。三者の登場する時間のずれた物々交換モデルでは、<あらかじめ>貨幣が存在していなくてはならない。

□貨幣の形態
・現金、預金、債券、株式、
・流通(交換過程)から引き上げられた貨幣は、貯蓄としてその一部は生産者へ投資される。貯蓄された資金と投資される資金の需給を調整するのが金融市場。

□投機の場としての金融市場
・貯蓄され投資先を見出せない「過剰」資金は、投機資金として金融市場に向かう。
・金融市場に金融商品が作りだされる。株式、債券、信用取引、為替、…デリバティブ。
・貯蓄と投資を結びつける金融市場は、過剰資金と金融市場における金融商品の発明によって、自立運動を始める。実体経済との乖離が始まり、加速される。
 投資と投機の対立、金融経済と実体経済の対立

□経済成長
・経済成長を生み出すものは、労働力の増加と生産性の増大である。生産性の増大をもたらすのは技術革新である。
・シュンペーターが述べたように、企業家の新たな製品への絶え間ない挑戦、過激なまでの創造的破壊や新機軸が経済を動かしてきた。

・絶対的欲望(生存のために必要な欲望)と相対的欲望(他人との比較、旧来商品との差異)
**絶対的欲望においては「差異」は欲望の駆動装置ではない。相対的欲望は、差異が欲望の駆動装置であり、欲望の全てになりうる。差異を生み出せば欲望を作り出せることになる。欲望、商品にとっては需要を作り出すことができる。逆に言えば、欲望を作り出さないと、需要はなく、商品は売れない。需要があるから、商品化するのではない、ということになる。作って見なければ、欲望に点火できない。*

第八章 「貨幣」という過剰なものーー「希少性の経済」から「過剰性の経済」へ
・クラ交換:マリノフスキー 「贈与ー返礼」
宗教的、政治的、儀礼的、社会的
・マルセル・モース「贈与論」 いつまでも生成状態にある交換
原初的で根源的であるこの交換を、われわれは「…でない」という形でしか表現できない。
 ポトラッチ:大規模贈与から始まる。大変激しい競争的で敵対的で覇権的なモノの破壊であり、饗応であり、贈答である。

□レヴィ・ストロース
・「交換」を未開人は「贈与・受領・返礼」と分けて理解した。あるのは交換だけである。
・彼は、「言語」「貨幣」「女性」の交換の制度、言語的コミュニケーション、経済の体系、結婚と親族の体系こそが社会を構成する三つの「無意識の構造」だと述べる。
・言語学のフェルディナント・ド・ソシュールは、言語とは「意味するもの=シニフィアン」(記号表現)と「意味されるもの=シニフィエ」(記号内容)の恣意的な結合だと述べた。

□ゼロシンボルとしての貨幣
・指示内容は持たずに、純粋に象徴作用のみをもつ=ゼロシンボル

・「貨幣」は何を意味するのだろうか。それは決して生活の中で具体的な使用価値も有用性も効用も持たないのであり、その意味では何をも表象していない。
 と同時に、それはすべての財と交換可能であるという意味では、あらゆるものを表彰しているとも言えるし、あらゆる使用価値を表彰しているとも言える。
 だからこそ、貨幣は重商主義者が言ったように「富」を指し示すことができ、マルクスが言ったように、貨幣は「一般的等価価値形態」となりうるのである。
 そして、それこそがレヴィ・ストロースがいう「ゼロシンボル」に他ならない。貨幣は人間の象徴作用において、純粋な「意味するもの=シニフィアン」になっており、それが表象すべき具体的な使用価値/有用性を持たない。それは純粋な「過剰性」と言ってよい。

・貨幣、貴重品、生贄/供え物

第九章 「脱成長主義」に向けてーー現代文明の転換の試み

「技術革新が活発になり、潜在的な生産力が増加して労働生産性が向上すればするほど経済成長は鈍化してきた。」

(ブランドは距離=希少性があるからブランドであって、誰もが買えるようになればもはやブランドではない。)

・希少性の原理
無限に膨らむ人間の欲望に対して、資源は希少である。従って、市場競争によって資源配分の効率性を高め、また技術進歩などによって経済成長を生み出すことが必要となる。
・過剰性の原理はこういう
成熟社会においては、潜在的な生産能力が生み出すものを吸収するだけの欲望が形成されない。それゆえ、この社会では生産能力の過剰性をいかに処理するかが問題となってくる。

・社会的な価値は市場では選べない。

・エマニュエル・トッド
民主主義とグローバル経済は両立しない。大衆の不満は、民主政治の中からやがて独裁を生み出し、民主主義が停止されるだろう。これを避けるためには、グローバル経済のレベルを下げる必要がある。
・グローバル経済のレベルを落とすということは、各国の社会・文化・経済システムの多様性を認め、国内事情に配慮した政策運営を採用できる余地を増やす事である。

・国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食料の自給率を引き上げ、国際的な投機資金に翻弄されないような金融構造を作ることである。▷▷「ネーション・エコノミー」を強化する方向へ舵をきる。
・成長主義という思い込み/強迫観念からわれわれを解き放つ必要がある。


2012-11-21

『遺伝子はダメなあなたを愛してる』

『遺伝子はダメなあなたを愛してる』
福岡伸一 出版2012.3


□ゴキブリ
 おそらく私たちはゴキブリの逞しさ、しぶとさが疎ましいのです。でもそれは勝手な感情です。私たちは圧倒的に新参者にすぎません。流線形の姿態。黒光りのする翅。機敏な動き。それは3億年前から変わっていないのです。ここにあるのは実は美しさです。彼らは地磁気を感知でき、密林でも真っ暗な台所でも正確無比に走り回れます。彼らは氷河期を耐え、恐竜の消長を見てきたのです。私たちに必要なのは謙虚さと時間の流れに対するリスペクトなのです。

□ドリトル先生
 井伏鱒二と石井桃子が翻訳

□花粉症と免疫系
 免疫系は自己と他者とを見分け他者を排除しようとする防衛能力。私を自己規定しているのは脳の働きだと信じていますが、実は自己と他者を明確に区別しているのは、脳ではなく免疫系なのです。
 免疫系は臓器のようなパーツではなく、全身に散らばっている免疫細胞のネットワークです。つまり私は脳に限局しているのではなく、身体全体に広がっているのです。
 胎児のうちに将来に備えてランダムに(百万通りもの)免疫細胞を作り出す。自分の構成成分と反応する抗体は、胎児の一時期に自殺プログラムが発動して無くなってしまう。++残った免疫細胞は自分自身とは反応しない。免疫細胞が反応する以外のものが、自分自身と言える。+つまり、免疫系にとって自己とは、穿たれた空間、すなわちヴォイドです。周囲の存在だけが自分を規定している。
 花粉は毒素も出さないし、増殖もしない。花粉症は免疫系の過剰な防衛反応です。

□卵子
 女性の卵子は、胎児期の最初たった4ヶ月の間に作られる。その数、700万個。この世に生まれる前にその大半が消失し、思春期までに残るのは役割を30万個。生涯に排卵される卵子の数は数百個。

□スクレイピー病(羊に起こる狂牛病) 狂牛病(BSE)
 2011年九州で発病した狂牛病について、報道では人には感染しないとしているが、これはあくまで想定。
・羊に起こるスクレイピー病が牛で発生したのは、羊の死体から作られた肉骨粉が牛に与えられていたため。この病気は、潜伏期間が非常に長く何年も経ってから発病することも多い。
・この飼料を食べさせた牛が狂牛病を発病し、それを食べた人に感染した。クロイツフェルト・ヤコブ病
・病原体は未だ謎。

□子ねずみの飼育から分かること
・遺伝子そのものの有無ではなく、遺伝子の発現の仕方が、行動によって世代を超えて伝達されうる。十分に親がかまうと、子供はゆったりと育つ。手をかけない子供はせかせかと落ち着かない。

□生命にとっての情報
・人間にとっての情報は、記録媒体の中に蓄積されているイメージですが、生命にとっての情報は「現れてすぐに消える」ことが重要。
・生命にとっては変化そのものが情報であり、変化の幅(差分)が、次の反応を引き起こす手がかりとなる。

□味覚
・甘みは糖質、すなわちエネルーギー源である炭水化物のありかを探る重要な手がかりとなる。
・うま味は、タンパク質の構成要素であるアミノ酸に対して感じる味覚。
・辛味 カプサイシン

□線虫 単細胞から多細胞へ
・生命誕生 38億年前 多細胞へ:10億年前
・細胞は増殖するにつれ、2、4、8、・・

**この増え方は「2項対立的」デジタルとアナログ。「ある」か、「ない」かと、「境界」。生命内の情報のやり取りも、基本的にあるか、ないか。*

・多細胞化 分化:専門化と分業
・線虫の細胞数は959個 シドニー・ブレナー:線虫の研究

□腎臓 生命体のフィルター機能
・血液は一日で30〜40回全身を回り、腎臓を通過する。
・腎臓は全ての血液を通過させ、必要な水分・栄養素・イオンを再吸収する。不必要な老廃物や過剰な水分などはそのまま下流へ流されるので、目詰まりを起こさない。
・寒いと尿が増えるのは、発汗量が減るため、その分を尿で調整する。
**水などの冷たいものに触れると、尿意をもよおす。これは事後的に水分量を調節しているだけでなく、事前に寒暖センサーだけでも水分量を調節しているのではないか? *

□LEDと蛍
・冷たい光は、転換効率のいい光。
・電球 10% LED 30% 蛍 90%
・植物が光を捉える能力、電化分離効果はほぼ100% 太陽電池は10%

□DNA
・DNAはあくまで情報のアーカイブであって、命令やプログラムではありません。そこから何が引き出されるかは、その人が生まれ育つ環境に大きく影響されます。
・能力・正確・進路適性、あるいは犯罪傾向と言った社会や文化傾向と切り離せない現象について、DNAの文字列から何かを言うことはほとんど不可能です。

□蝉
・初夏 ニイニイゼミ 「チー」
・ ミンミンゼミ
・暑夏 アブラゼミ 「ジリジリ」
・晩夏 ツクツクボーシ

□小動物と寿命
・小動物ほど体重に比べて表面積は大きい。▷体温維持のために代謝を活発にする必要がある。▷呼吸と心臓拍数が早い。▷細胞が酸素に曝され、酸化ストレスをもたらす。

□肺呼吸 ミトコンドリア 酸化反応
・ミトコンドリア 細胞内部で酸化反応を担っている。
酸化反応:炭素(糖質)に酸素を与えて、酸化(化学反応)によりエネルギーを得ている。燃えかすが二酸化炭素。
・ドジョウ 腸で呼吸できる。
・肺は、消化管から分化した。
・恐竜と鳥の近さは器官機能的な類似性でも説明できる。両方とも気嚢(きのう)を持っていて、吸った時に気囊に空気を溜めて、吐く時には気囊に溜まった空気を肺を通過させて、酸素吸収する。呼吸の往復で酸素吸入ができる。(高度の高い)低酸素状態でも生きていける。酸素吸収の効率が高い。

□落葉
・植物には、動物のような老廃物の排出の機能がない。細胞の内部に特別な閉鎖空間=液胞を作って、有害物質や老廃物を溜め込む。内部の内部に外部を作っている。この液胞にはキャパシティ(容量限界)があるので、落葉によって捨て去る。
・落葉のプロセス:葉で作られた養分を回収して枝や幹に貯め込む。葉っぱの付け根に仕切り壁を作って切り離す。


□アゲハ蝶
・アゲハ蝶/黄アゲハ:黄色地に青い斑紋/黒アゲハ:黒に白い線/アオスジアゲハ/カラスアゲハ
・蝶は味を前足の先で感じる。
・「ニッチ」の本当の意味は、(生態学的)棲み分け。蝶は種類ごとにニッチを持っている。人間だけが共有ではなく占有を求めている。

・マヨネーズが腐らないのは、酢酸によってpH3〜4に保たれているから。

□□あとがき
・あるいは私たち自身が、自分の運命が何者かによって予め決められているという物語が好きなのかも知れません。それが今や、遠い天空の星の運行ではなく、私たちのミクロな内側に潜むリトルピープル=遺伝子の戦略に操られている(という物語)、と信じたいのかも知れません。

2012-11-17

PV『桜流し』 宇多田ヒカル


 汚れをぬぐいさり、色を鮮やかに、…アフターイフェクトを施し、作り込まれ加工されたものから離れ、ドキュメンタリータッチのざらついた生々しさを訴えてくる映像を、宇多田ヒカルは選びとった。
 普通に思い浮かべると、彼岸花の赤は鮮やかだし、産まれたての赤ん坊も晴れやかで瑞々しいピンクの肌色をしている。しかし、ここでは、私たちが頭の中に思い描いてしまうようなをイメージを、PVの映像は、薄汚さ(うすぎたなさ)の方へつまり現実の方へ、あへて裏切っている。映像作家が河瀬直美だと知って、ふむなるほどと思う。私たちに埋め込まれた幾重ものフィルターを、ここはいっぺん外してみようよ、と宇多田ヒカルは私たちを誘っているのかもしれない。
 彼岸花と赤ん坊。赤ん坊が母親の指を握りしめる仕草。臍の緒の切断。
これらのイメージの絵解きは、…やめておくのが賢明だろう。

こちらの方に映像はある
http://gigazine.net/news/20121117-evaq-sakuranagashi/



《 桜流し 》

 聞いたばかりの花が散るのを
 「ことしも早いね」と
 残念そうに見ていたあなたは
 どう思うでしょうあなた無しで生きてる私を

 Everybody finds love
 In the end

 あなたが守った街のどこかで今日も響く
 健やかな産声を聞けたならきっと喜ぶでしょう
 私たちの続きの足音

 Everybody finds love
 In the end

 もう二度と会えないなんて信じられない
 まだ何も伝えてない
 まだ何も伝えてない

 開いたばかりの花が散るのを
 見ていた木立の遣る瀬なきかな

 どんなに怖くたって目を逸らさないよ
 全ての終わりに愛があるなら


  Music by Utada Hikaru and Paul Carter
  Words by Utada Hikaru

2012-11-16

ランチタイム

−スパゲティー・ペペロンチーノ−
 スパゲティーは電子レンジで湯がく。ソースは出来合いのもの。それに生卵を合わせて、海苔をトッピングすると出来上がり。ソースに付いているトッピングのガーリックとトウガラシはGood.
 変な表現だが、美味いわりに簡単にできすぎる。


 生卵がなければ、おそらく、私には味が濃すぎる。
 パルメザンとオリーブオイルのあとがけは、口に合わない。


2012-11-06

iPad mini 素人な個人的感想


2012.11.5

⒈iPad miniは軽い
・重さが半分以下のiPhone4sよりひょっとして軽いのかと思わせられる。小さなiPhoneには、重量密度が高く、iPad miniに比較すると機能と部品がギュッと詰まっていることを実感させる(いい意味で)ずっしり感じがある。iPad miniは薄さと重量密度の低さ及び実重量の軽さが相まって、とにかく重さを感じさせない。携帯性の良さが際立つ。
・もし私がWi-Fi環境にないところにちょくちょくいるなら、ひょっとして3G/LTEが必要かもしれない。しかし、電車の中ではRetinaのiPhoneで十分だし、それ以上のことを求めるのは、生活様式の限度を超えている。してはいけない行動だ。

⒉動作がスムース
・iPad専用のアプリが痒い所に手が届く様に作られている。
・SafariでWebブラウジングする時、Androidのように全部開き切らなくても、スクロールがスムースに行える。3カラムに分割されていて中央に本文があるサイトがよくあるが、本文を読むのにクリックで大きさを調整できる機能はAndroidも同じように持ってはいるが、文字拡大の調整がスムースで適切なのは断然iPadだ。
・Web上の記事でも、スペック数字では優れているNexusが、スコアがほぼ同じで体感的にも差が無いとの記載がある。実際に使って見ての感覚と同じだ。
『iOS機器とAndroid端末の性能比較できるベンチマークアプリ「PerformanceTest Mobile」を使用して比較したトータルスコアは「iPad mini」が2049で「Nexus 7」が2082。CPUのコア数や搭載メモリで勝る「Nexus 7」と「iPad mini」がほぼ同じスコアになっているのは少し意外ですが、実際に操作してみた際の体感速度でも大きな差を感じることはありませんでした』

⒊十分なスペース=大きさを持っている
・いま、TextForceで入力しているが、テキスト入力画面としてはAndroidの10”タブレットと同じくらいのスペースが確保されていて、読みやすく、入力しやすい。(Webブラウザーでも同じようなことが言えるが)テキスト入力画面として横幅が大き過ぎては、一覧性に欠けたり、目(視点)の移動距離がほんの少し長くなっただけで辛かったりする。スペースが十分でない時のデメリットは書かなくても分かる。
・このディスプレイの大きさの適切さは、不思議なことに、縦使いでも横使いでも同じように使いやすいのだ。
・Webブラウジングでも、これ以上の大きなスペースは要らない。必要十分な大きさだ。

⒋外付けキーボードとの相性
・AppleのWiFiキーボードとの相性が良い。AndroidではUS配列になったり、動かないキーがあったり、入力にストレスを感じた。
・これだけスムースに入力できると正直、NotePCは要らないだろう。

⒌ディスプレイにわずかに不満
・思っていた程度の悪さでしかないが、ディスプレイがRetinaでないことは残念だ。これでもしRetinaディスプレイだったら、言うことはない。
・Webブラウジング時に文字を読むのにはそれほど不満は感じないのだが、さすがにビューンを読むのは辛い。これはRetinaでないと無理かも。
・Kindleのbookを読むのは全く問題ない。
・価格・重量・厚み・必要CPUの組み合わせを考えると、今のiPad miniはベストミックスなのだろう。

・充電に時間がかかり過ぎる。iPhoneと同じ5wの充電器では不十分で、12wの物を標準パックにすべきだ。

⒍AssistiveTouchに驚いた
・iOS⒌から導入されたAssistiveTouchだが、iPhone4sで使用してみた時は、全く使いようがないものだと感じていた。ところがiPad miniではむちゃくちゃ便利なのだ。iPad miniをスタンドに立てかけて使うからだ。その状態ではホームボタンを押しにくい。 ところがAssistiveTouchを使うとホームボタンもディスプレイの回転ボタンも、そして音量ボタンも物理ボタンを二つ押して使うスクリーンショットまで、つまり物理ボタンが全てこのソフトボタンで代替できるのだ。
・4本指で使うマルチタスクも使える。アプリ切り替え、マルチタスクバー、ホームボタンもこのマルチタスクジェスチャーでこなせる。

⒎ノングレアのフィルム 
・写り込みが無くなって、目に優しく見やすくなった。これは僅かな投資でディスプレイの価値を高めると言えるほど、かなりな効果があった。