http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/15/shiryou3.pdf
津波 海溝型地震のおしえ
「安政南海地震 継承されること 忘れられること」(大坂)
安政南海地震(1854)の津波は、この堀にも侵入し、少なくとも340人もの人が津波の犠牲者となりました。そのことを生々しく物語るのが、大正橋の石碑です。
その文には安政元(1854)年六月十四日の伊賀上野地震による大阪の様子、十一月四日の安政東海地震の大阪での震度4程度のかなり大きな揺れを感じて、多くの人が小舟に避難したことが書かれています。石碑には、続いて翌五日の南海地震の記事が現れます。すなわち、申刻(16時)の本震の揺れによって、大阪では家の崩れ、出火も生じました。本震から2時間ほど経過した日暮れごろ、大津波が押し寄せ、安治川、木津川に山のような大波が入ってきました。
「今より百四十八ケ年前、宝永八丁(ママ)年十月四日の大地震の節も、小船に乗り津浪にて溺死人多しとかや。年月へだては伝へ聞く人稀なる故、今亦所かはらず夥しき人損し、いたましきこと限なし」
すなわち、148年前の1707(宝永四)年の南海地震でも、地震からの避難のために船に乗った人が大勢いて津波で溺れ死んだ。長い年月がたったので、この言い伝えを知る人が少なくなり、今またむざむざと同じように船に乗って同じ原因で死者を多く出すことになってしまった、というのです。先人の残した教訓を生かすことができなかった悔しさがにじみ出ています。
このあと石碑には後世の人へ教訓を残す文章が続きます。
「後年又、はかりがたし。すべて大地震の節は津浪起こらんことを兼ねて心得、必ず船に乗るべからず」
碑文の末尾はこう締めくくられています。「願わくば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」私がこの石碑を見学に行ったのは、2005年の秋でしたが、この石碑には今も黒々と墨が入れられていました。この石碑を建立した人の子孫の人々が毎年墨を入れ続けているというのです。
図1 大阪の河川を大型船が流される様子を伝える瓦版
(安政南海地震の津波が大阪の堀に侵入、船で避難しようとした人が多く犠牲になった。)
(大阪府立中之島図書館所蔵)
1896(明治29)年6 月15 日、小さな揺れが感じられました。現在の震度にして2~3 と思われる小さなものであったようで、人々はさして気に留めませんでした。ところが、この約30 分後に巨大な津波が不意に押し寄せ、2 万2 千人にのぼる死者を生んだ津波災害となりました。
地震の規模の割に非常に大きな津波を引き起こす地震を「津波地震」と呼びますが、明治三陸地震津波はこの「津波地震」により引き起こされた津波でした。津波は、岩手県では標高38mまで駆け上がり、驚くべき事にハワイでも9mほどの津波が来襲していました。明治三陸地震津波は、津波そのものの大きさもさることながら、津波の警鐘となるはずの地震動が小さかったために、前触れなき大津波として語り継がれています。
三陸地方は過去何度も津波に襲われてきました。明治以降、三陸地方を襲った大津波は1896(明治29)年明治三陸地震津波、1933(昭和8)年昭和三陸大津波、1960(昭和35)年チリ地震津波の3 例ですが、それ以前にも現存している資料から判断すると平均で46 年に一度大津波が発生しています。
図2-1 幻燈写真 (仙台市博物館蔵)
左:釜石市街を襲う明治三陸地震津波
(前触れ無く押し寄せた巨大な津波に翻弄される人々が描かれている)
右:津波被災地の惨状
(海岸では生き残った人々が瓦礫を片づけ、砂に埋まった遺体を掘り起こす作業をしている)
明治三陸地震津波の津波被害についてまとめた岩手県の報告書を見ると、岩手県内の死者数18,158 人のうち、荼毘(だび)に付された遺体の数は10,200 人とあります。つまり8,000 人近くの遺体が未だに発見されておらず、その多くが三陸の海に静かに沈んでいるのです。
図2-2 津波に翻弄される人々
(出典:風俗画報、臨時増刊第百十八号、海嘯被害録からの抜粋)
「今より41 年前に起こった津波は緩やかで、家の2 階にいた者の多くが助かった。明治の津波では、驚き慌てて逃げた者は助かり、過去の経験から津波はゆっくりやって来るものだと信じていた者は避難が遅れたために、巻き込まれて亡くなってしまった」。これは、1859(安政三)年に三陸はるか沖で発生した地震津波を経験した人が、津波というものは緩やかな波だと油断したために命を落とした例です。津波が押し寄せる状況は様々で、過去の経験に基づく行動や思い込みが裏目にでる場合もあるということを忘れてはなりません。
“つなみてんでんこ”という言い伝えが東北地方にはあります。
これは「津波のときだけはてんでばらばらに、親子といえども人を頼りにせず、一目散に走って逃げよ」という意味です。
「村の再建 先見性のある構想とリーダーシップ」
津波は村全体を破壊しつくしました。人々は、家だけでなく村全体を再建する必要がありました。同じ悲劇を二度と繰り返さぬよう、人々は集落・家の再建にあたり、より高所に住むことを選択しました。村の良識ある指導者により高所への移住が提案され、人々が高所に移り住むことになりました。しかし、時が経つにつれ、日常生活の利便性を優先して海辺に戻ってしまうことになり、明治の津波災害の37 年後の昭和8 年(1933 年)に、三陸を再び大津波が襲うことになります。このときに明暗を分けたのが集落の高所移転のやり方でした。
東北地方出身の地理学者山口弥一郎は、津波被災後の三陸沿岸の集落を詳細に調べ、津波災害復興事業としての高所移転がうまくいった要因を分析しました。204 名の死者を出した岩手県気仙郡吉浜村(現大船渡市)では、当時の村長らが山麓の高所へ移転する計画を立てました。まず低地にあった道路を山腹へ変更し、もともと固まって位置していた集落を道路に沿って分散して配置するように工夫しました。その結果、1933(昭和8)年の昭和三陸地震津波による流失家屋数は、移転後に新しく低地に建った10 戸と移転位置の悪かった2 戸のみで済み、高所移転は成功しました。リアス式湾の奥にありながらほとんど被害を免れたのは、先見を持った者のリーダーシップと、村人全員が協力しあって難事業である集落移動を完了させたためです。
一方、吉浜村のすぐ北に位置する唐丹(とうに)湾の湾奥の気仙郡唐丹村(現釜石市)では、総戸数290 のうち272 戸が流失し、人口1,502 人中1,244 人が亡くなるという壊滅的な被害を受けました。村の役場の幹部らが中心となり、山腹に宅地を造成して村人たちに移転を提案しました。しかし、一度は移転した村人たちも、のちの豊漁が裏目となり、浜作業などの日常の利便性を求めて徐々に元の海岸に移り住むようになってしまいました。さらに不運なことに、大正2 年に発生した山火事により、山腹に移転した集落の9割が焼失するという被害を機に、最終的には元の場所に集落が再建されてしまいました。その結果、昭和8 年の津波で、再び260 あった集落のうち208戸が流失・倒壊するという悲劇が繰り返されてしまいました。
津波はそうそう来るものではないのに日常の生活が不便であったこと、津波後に大漁が続き、浜作業をするために海から離れ難かったことが挙げられます、津波襲来が頻繁でないこと(約10年経った頃からの復帰が目立つ)、津波未経験者が移住してきたこと、などが挙げられます。
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「年を隔てると同じ過ちを繰り返してしまった。だから後年には、天災は予知することはできないのだからせめて大地震には津波がつきものだと云うことを覚えておこう。後の人のために石碑を建て、忘れないために毎年毎年墨を入れることにしよう」…このような先賢の教えもむなしく、大阪の堀川を翻弄される船が時を超えて今何倍にもなって東北の長大な海岸線で流されているようにさえ見える。
東日本大震災に遭遇した私たちが何とも愚かだと思い知らされるのは、上に見たように三陸では津波は何度も繰り返し起きて、その度に先の経験を生かすことなく大きな犠牲を被っていることだ。明治三陸の悲劇は「311」そのものとしか見えない。今また当事者や為政者が知見が及ばなかったとか想定外であったとか、愚かしい欺瞞にみちた言葉を連ねている。明治、昭和と繰り返される津波襲来は「昨日起こった今日なのだ」人々の魂を鎮めることもせず、私たちはこの愚行をまた繰り返し、明日に備えることもしないのか。
日常の不便さや日常のパンが私たちの目を曇らせる。利害調整という小さな困難が未来から足を遠ざけさせる。ちっぽけな地位や関わりが本当のことを云う勇気を奪いさる。
幾人かの少数の人達は、過ちを繰り返さないための都市計画を、エネルギー政策を訴える。しかし多くの為政者や企業経営者は誠実でも、人々に寄り添ってもいないことを日々明らかにしている。テレビや新聞が真実を伝えていないことを知らせている。
私たちは気付きはじめている。でも、変わらないことには変えられないのに、一歩を踏み出せずにいる、私がいる。
(masumi)
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追加資料
仙台平野の堆積物に記録された歴史時代の巨大津波
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/2006/08/06_08_03.pdf
4/2追加 岩手日報 「津波防災 ハードの限界」
東日本大震災で、世界一深い釜石市の釜石港湾口防波堤や宮古市田老地区の大型防潮堤など、津波防災の象徴とされた施設は決壊するなどし、大津波を防げなかった。これまで多額の事業費を費やし、住民にも一定の安心感を与えていたが、今回の津波で限界を露呈。今後はハード整備に依存しない新たな津波防災のまちづくりが求められる。
水深63メートルと世界一深い防波堤として、ギネスにも認定されている釜石港湾口防波堤。国が30年以上かけて整備した津波防災のとりでだったが、歯が欠けたように何カ所も決壊した。
同防波堤は明治三陸津波(1896年)で約3700人が犠牲になるなど、過去に何度も津波の脅威にさらされた釜石湾沿いを守ろうと約1200億円を掛けて整備。2009年に完成したばかりだった。
同市嬉石町の成沢幹雄さん(72)は「金をかけた割に弱かった」とため息をつく。
港湾空港技術研究所(神奈川県横須賀市)の調査によると、釜石港には今回7~8メートルの津波が押し寄せ、同市中心部も浸水。しかし街が根こそぎ「持ち去られた」格好の陸前高田市や大槌町などに比べ、比較的多くの建物が原形は保った。
野田武則市長は「防波堤があったから被害がこれぐらいで収まったと思う」と一定の効果は認めた上で「ここに住むのは『危険』と明確に示すなど都市計画を見直さないといけない。違う視点でまちづくりをする必要がある」と強調する。
宮古市の田老地区は総延長2433メートルと全国でも珍しいX型の大型防潮堤があり、高さは昭和三陸大津波(1933年)の最大波高を想定した約10メートル。「津波防災のモデル地域」として知られていたが、田老魚市場近くに造られた582メートルの防潮堤は、津波で跡形もなく破壊された。
家を津波で流失した漁業山本勝己さん(75)は「時間とお金をかけて造った立派な物が数分で壊れた。まさか津波が越えてくるとは」と肩を落とす。
宮古市の小笠原昭治危機管理監は「防災で考えていた範囲を超えていた。ゼロから考え直さなければ」と話す。
防波堤や防潮堤は過去の被害などを踏まえて整備されてきたが、今回の大津波は国にとっても「想定外」。東北地方整備局の遠藤正義港湾空港環境対策官は「学識経験者や関係機関と調査を進め、今後の対策の在り方を検討したい」と語る。
岩手大工学部付属地域防災研究センター長の堺茂樹同大教授(海岸工学)は「今回の津波に耐えられる構造物を造るのは、多くの時間と費用が必要でほとんど不可能。住民組織の日常的な備えの見直しなどソフト面で補う体制づくりが重要だ」と説く。
(2011/04/02)
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(追記 2011/04/11)
防災科学研究所・自然災害情報室 特設サイト http://goo.gl/n4bFl
過去の津波災害の情報へのリンクポータル
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