2012-03-25

あえて、フクシマ

小田嶋隆 レッテルとしてのフクシマについて

《フクシマ 》
311以降福島は福島ではなくなった。
フクイチ事故の衝撃は二度の大規模爆発のイメージを携えて瞬時に世界を駆け巡った。先端技術国日本でさえ原発事故を起こしてしまうという事実を世界に 認識させ、311後の世界の象徴としてフクシマ(もちろんFukushima のことだ)は世界の共通語になったのだ。フクシマはいわば1Q84の世界なのだ。どこでどう間違ったかを検証し立ち返る方法を真剣に模索し必死の努力をしないことには、311以前の福島へ返ることはできない。311の前を起点にした今日を取り返すことができない。

フクシマを福島と言い募るのは、世界が変わってしまったという事実に目を背けることにつながる。事故によって放射性物質が撒き散らかされ広範囲に汚染された事実と、安全神話で隠蔽されていた過酷事故など有りえないという現実が突きつけられたことだ。

フクシマと福島を生きるしかないのだと、思う。


《原発ムラ》
特定の利益で結ばれたネットワークがある。その内実は、名付けることで、人々の認識となる。原発事業という特定の利益で結びついたネットワークを原発ムラと名付ける。それはレッテル貼りであるかも知れないが、レッテル貼りが非難されるべきは、それが間違った内実を示す時だけだ。 矮小化や偏向を伴う時にレッテル貼りの、不実が現れる。

以前作成した原発ムラの図 リンク


《御用学者》
お上の用に立てる学者のことを云うのだ。そもそも東大はお上のお役に立てる者たちの養成機関として設立されたし、 今もなお学問の中心であるより御用の為のアドバイザリーであったり、諸大学や学会の管理の中枢の役目を果たしている。

あ、荒れてきた。

エア御用 安全厨 放射脳はもういいだろう。
小田嶋氏のいつもの芸が十分に発揮できておらず、たんに用語を茶化し貶めていると思える文が散見されるのが残念。
朝日新聞デジタル:2012/3/25 福井県原子力委員に1490万円 電力側、5人に寄付

2012-03-23

Twitterについて ”コメントコンテンツ“

SNSの中でもTwitterは、mixiやfacebookのような人と人を結びつけるソーシャルネットワーキング機能に加えてコメントコンテンツを流通させるという機能を得意としている。

何も分からずにTwitterに初めてログインしたとき、画面に現れたのは「今なにをしているを呟きましょう」というフレーズだった。それはリアルな社会生活での「おはよう」で始まる日常の世界をネットで実現しようとしていると思えた。mixiの書き込みはリアルタイムではないので「おはよう」「いい天気だね」は成り立たない。この直接的な意味がほとんどない言葉による会話で、人と人の日常生活の関係性が具体的に動いていく。しかし、この写しとしてTwitterが使われたかというと、そうでもなく、そのような呟きのやりとりが副次的にしか使われない場が広く活発に形成された。

そこではTwitterはネット上の人付き合いの道具から離れて、コメントコンテンツのリアルタイムの流通という機能を主に担うようになっていった。

Twitterは情報の共有ツールとしても優れていた。一次情報の主なものはマスメディアで収集される情報だ。次にマスメディア以外のネットにある情報。それらをベースにしてその情報に対峙した個々人の思いがTwitterの呟き=コメントとして表出される。コメントに接して想起された思いが、さらに新しいコメントコンテンツとして生み出され、神経回路で起こっているようにソーシャルネットワークの世界でスパークし響きあい、消長する。
Twitterの主役は、茂木健一郎が言うように“文化的遺伝子=ミーム”なのだ。
コメントコンテンツとして主に現れるのは、新聞でとり扱われる分野に重なり、その量の多寡や軽重も相似していると思える。

Twitterではしばしば論争めいたものがあちこちで小爆発を起こす。この宇宙では論争は噛み合わず生産的な過程を伴ってアウフヘーベン(止揚)された試しはない。Twitterが論争に向いていないと、誰もが気付いている。140字の“コメントコンテンツ”が持っている容量と質の限界なのだ。

世間では嫌悪感や不満、ヘイトスピーチを生み出す感情が渦巻いている。かつてはその感情を表出するには面と向かって実名でなされるしかなかった。当然抑制がかかっていて、また閉鎖的だった。ネットはこれらの感情を社会へ表出する回路を開け、その上匿名性の仮面を被ることによってリミッター装置を解除し感情が生のまま露出されることになった。この呪いの言葉は感情的、否定的、断定的で貧相な言葉使いで構成されている。
それを反映してTwitterにも呪いの言葉は繁茂している。静かに放置するのが鎮める一番の方法だと思うが、参照しコメントをつけることがTwitterの本態的な機能なので呪いに加勢し火に油を注いでいる。批判しようとして蛸壷から抜けられずTwitterの性質に自分が踊らされていることに無自覚なことが多い。

このようなネガティブな面を持っていても、限定的とはいえ“コメントコンテンツ”に込められた思念=意見を、それまでは不可能だったパブリックに表出する事ができるツールであり、Twitterの場は思念が響きあう一つの宇宙なのだ。

《『東浩紀 一般意志2.0』
ツイッター …それはかつて想像の共同体の要としての国民国家の統合に大きな役割を果たした新聞やラジオやテレビのような二十世紀型のマスコミとは対極にあるメディア体験である。新聞やテレビでニュースが強制的に視聴者の生活に入り込んでくる。ネットにはそれがない。けれどもツイッターは他方でそのような島宇宙を横断しユーザーをそれぞれの小さなコミュニケーションの外部に半ば強引に連れ出す機能もまた備えている。 親密なコミュニケーション空間の間を、時折爆発的に拡散するリツイートの群がランダムかつ暴力的につないでいるような二層構造で維持されているのである。》

《内田樹  ブログ:ネットに繁殖している言葉の多くは匿名であり、情報源を明らかにしないまま、断定的な口調を採用している。ネットは実に多くの利便性をもたらしたが、それは「匿名で個人を攻撃をするチャ ンス」を解除した。今ネット上に氾濫している言葉のマジョリティは見知らぬ他人の心身の耗弱をめざすために発信される「呪い」の言葉である。》

ツイッターの特性 ー 茂木健一郎氏のTwitter投稿

「ツイッターのつかいかた」 2012.03.23 09:46 twitter
(1)私は今までありとあらゆるネット上のツール を試してきたが、ツイッターが続いているのはやはり性に合っているのだろう。メーリングリスト、掲示板、ブ ログなど、さまざまなサービスがある中で、ツイッターのさまざまがどうも生理的にぴったりくるような気がす る。
(2)ツイッターについて常々思うことは、それは 決してSNSではないということである。ツイッターにおいて最も大切なのは人と人とのつながりではなく、むしろ内容ベースの拡散、響き合い、つながりである。そ の意味で、ツイッターの主役は、人ではなく、文化的遺 伝子(ミーム)なのだ。
(3)もちろん、自分の知人や尊敬する人の「つぶやき」は気になる。その一方で、自分の知らない人や、 フォローしていない人の「つぶやき」も、それがもし力 のあるものであるならば、私のところに「届いて」くることもある。人的関係を超えたそのような脈絡が、ツ イッターの魅力である。
(4)ツイッターは人的関係を反映したウェットなメディアではなく、むしろ人的関係を超えたドライなメディアである。逆に言えば容赦なく淘汰が行われるとも言える。そのような厳しい感じが、私は好きなのだろう。それにくらべるとmixiはもちろんfacebookも温いように感じる。
(5)つまり、ツイッターを使う上で一番大切なこ とは、TEDと同じように、Ideas Worth Spreading (広げ るに値するアイデア)ということであって、そのことを、短い文章で凝縮して表現する修業の場としてとらえ れば、ツイッターは大いにあなたを磨いてくれることだ ろう。
(6)一方、ツイッターには向いていないこともあ る。例えば論争。対立的な意見があったときに、そのこ とについて充実した論争をすることには、ツイッターは向いていない。文字数が足りないこともあるし、水掛け論になりやすい。どちらかと言えば、ある特定の立場を 「言い切る」ことに向いている。
(7)特定の人に対して、あるいは特定の論点に対 しての対論をつぶやきつづける人がいるが、あまりツイッターに適した振る舞いとは言えない。むしろ、ツ イッターは、自分のある論点について、積極的な主張をして、それに賛同する人はRTしたり、あるいはコメントしたりする方が向いている。
(8)ツイッターを神経系にたとえれば、特定のツ イートに共鳴してRTしたり、コメントしたりという 「興奮性」の結合には向いているが、何かを否定したり揶揄したりという「抑制性」の結合には向いていない。 批判する場合でも、独立した立論として表現する方が適している。
(9)批判を、特定のツイートや個人に乗っかるかたちで立てるのではなく、独立した論点として立てるこ と。その批判自体が、「広げるに値するアイデア」となるかどうか、審判を受けること。この一点だけを気に留めていれば、ツイッターはとても使い勝手の良いメディ アとなる。